釈尊最後の旅

お釈迦様は80歳で自分の死を自覚されて、王舎城(ラージャグリハ)からバイシャーリーを経由してクシナガラに入滅の旅にでた(200km以上徒歩)。お供はアーナンダのみのようだ。途中鍛冶屋のチュンダの供養を受け、きのこを食した(中毒したという説がある)。結跏趺坐して歩き始め、クシナガラ沙羅双樹林につき、アーナンダに敷物を敷かせ、北に頭、顔を西に横たわられた。81歳の誕生日(4月15日)の夕方であった。お釈迦様は自分の一生の仕事を見られてまだ2人済度しなければいけない人が残っているのをご覧になった。一人は音楽の名人、最喜。もう一人は善喜である。
最喜の化度。
神通力をもって彼の家の門に現れ、琴を奏でた。最喜もこれに応じて琴を奏で、両者互角であった。そのうちに両者の琴の弦が切れて、だんだん弦が減り、最後に弦がなくなった。最喜は無音だったが、釈尊は神通で弾き続け、ここで最喜の高慢心が敗れた。そして説法を聞き弟子となった。
善喜の化度。
善喜は仏教外の宗派の教師で120歳で悟った人として有名であった。しかし自分がそうでないことに気づき、真の仏が今まさに死んでしまうということを知り、沙羅双樹林に駆けつけた。アーナンダに釈尊に合してくれと頼むが、重病であるといって断られた。
釈尊はこれを知られて、合うのを許可し、説法をした。これにより、善喜は魂の完成をなしとげ、釈尊の死を見るのに耐えられないと言って自殺した。
これですべての予定されていた人々を救済したので釈尊は肉体の死に入られた。
(注)河口慧海:正真仏教によると、アーナンダは釈尊の従兄弟でデーヴァダッタの弟。20才で入教、25年間釈尊随行。45才の時釈尊が死亡、まもなく仏教首座になる。仏教の時代区分は根本仏教原始仏教小乗仏教大乗仏教である。根本仏教釈尊在世中から直弟子が活躍していた仏滅後40年までを言う。仏教首座は初代:釈尊 2代:マハーカーシャパ 3代:アータンダである。アーナンダは85才で死亡したが、この時までが根本仏教時代。原始仏教は仏滅後40年から110年の阿含経編纂時代をいう。大乗は根本仏教復興運動で仏滅後300年頃から始まった。大乗と小乗は並列・共存している。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
大神様(北村サヨ)の晩年の世界巡教とか死の2,3ヶ月前からの死の寸前までの説法、個人指導など、実に驚く程似たことが多い。
わしはすべて説きつくし、済度すべきはすべて済度した。と大神様は最後の頃言われていたようだ。
仏教界で長年問題となってきた疑問も推定できよう。
1.何故仏が食中毒になるのか?
2.神通で現れ化度したのは、ありうることか
3、死の寸前の重体で説法できるのか 等々
仏は食中毒を示された。大神様は中気、交通事故、一酸化炭素中毒、癰、結核、小児麻痺、神経痛、など様々な重病、事故を「示された」。しかし説法は毎日欠かさず重病中でも行った。死の直前は55日間も絶食して肉体は枯れ尽くしていても「わしは死ぬまで説くんよ」と説法された。いつも説法になると「治ってしまった」ようにされた。これは大神様は実相界(霊界)にあり、現象界の肉体だけの存在でないことを明示するためであったと説かれたことがある。人間とは肉体とそれに付属する欲望だけの存在ではない。これに気づくことを人空、人無我という。つまり、仏も大神様も病気を示すことで、人空を示されたのだろう。