邪淫とはなにか--不邪淫戒詳細

2009-06-14の日記邪淫
umou.hatenablog.com
に触れましたが、これは続きです。
邪淫にはさまざまなものがあります。交通違反でも重い違反と軽い違反があるように邪淫にも酷いものから軽いものまであります。
スウェーデンボルグが詳細に書いています。

行為から見た悪質度

1.最最悪
モーゼが定めたケースです。レビ記18.6に書いてある。
A.人間以外とのセックス
B.同性愛
C.自分の直系親族とのセックス(近親相姦)
 父と子 母と子 兄弟姉妹間 祖父母と孫 父兄弟と娘、母の姉妹と息子 等
D.自分の直系親族の配偶者とのセックス(近親相姦に準じる)
 兄弟の妻との姦淫 等

2.最悪
いわゆるダブル不倫。2人とも結婚しているどうしでの姦淫

3.悪
夫(妻)が未婚の相手と不倫する
この相手が純真な若い女性(男性)であると悪質度はあがる。その相手の人生を台無しにしたため。

常習であると交通違反の点数が加算されるのと同じで、邪淫も何度も繰り返す程罪が重くなる。乱交を好んだり、常に新しい相手を熱心に漁り、一度手に入れると極度の冷淡さで捨てるということを繰り返すまでにもなると、人間性を完全に無くす。

確信犯は罪が重い。確信犯とは、邪淫に罪悪感を持たない人をいう。

快楽犯はさらに罪が重い。邪淫に快楽を感じ、邪淫を積極的に追求する人をいう。この究極は各種性犯罪、猟奇事件にまで至る。サディスティクな性癖とか、無垢なものを汚そうとする狂気、幼児性愛、など異常性癖が特徴で、神戸少年(サカキバラ)、宮崎勤、などもそうである。精神(正義感とか人間性)が完全に破壊されてしまう。

スウェーデンボルグはいう。(私の要約)
人は妻とのセックスと愛人とのセックスに何の差異も認めず、邪淫が悪であることを認識できない。こういう人が大多数である。しかし自分の配偶者が不倫をすれば、裏切りと怒る。人が嫌がることを自分はすべきでないという原則を思い起こせば邪淫は罪であることを認めるだろう。
喩えて云えば、人の心には生まれながらに清流が流れている。処女と童貞が結婚し、生涯浮気をせずに、愛し合ってすごせば、この清流は生涯流れ続けている。彼らの心は誠に清い。体も清い。
邪淫はこの清流の源を塞ぐ。水は流れず、溜り水となって腐敗し悪臭が発してくる。心がどんどん汚くヘドロのようになっていく。肉欲にしか目が向かずどんどん心は荒廃する。豚が汚物を好んで餌とするように、不潔なものばかりを漁るようになる。

仏教でも在家が不邪淫戒を守ることを清浄業という。出家の清浄業は不マイである。
このように至るところでスウェーデンボルグの教説と河口慧海の説く仏教は一致してくる。
邪淫についても懺悔が過去の過失を清めるという教説も共通している。懺悔とは内心深く反省し、2度とそれ以降繰り返さないことをいう。

ところで太宰治が大人気であるが、彼は邪淫の限りを尽くし、最悪の極にまで行った人物で人間失格という本まで書いているからその自覚はあったのだろう。
http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/dazai.html
極端に喩えると表面的にはロス疑惑三浦和義と似ているようにも見えなくも無い。その作品は聖書とか仏教を愚弄したようなのがある。周辺女性も何人か死でもいる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E5%92%8C%E7%BE%A9
人格が汚れの終局まで達したというように見えることからくる類似性を感じてしまう。
このような人物を文聖としてあがめ追求してばかりいると自心も知らず知らず汚染されていくことにはもっと注意すべきだろう。サルトルジャン=ジャック・ルソーも同種であり注意がいる。
企業でも人事課が社員の家庭の乱れや社内不倫をスキャンダルとしてマイナス評価にしている所は健全な企業風土で良い業績を続けているケースが多い。経営者が、社員の性の乱れは道徳性を低下させ、トータルの企業の健全性に悪影響を及ぼすことを認識しているからである。日本企業で製造とか流通で強いところはこういうのが多い。アメリカ企業でも、かってはそうであった優良企業があった。この辺りをないがしろにすると最近のウォール街のようになってしまう。
小説家、映画、音楽界とかマスコミ関係者は、邪淫を当たり前にする人が一般より割合が多いように見える。かれらは社会への影響力が大きいだけ、社会に垂れ流す心の泥は多いというべきだろう。