人生の美学ー山岡鉄舟

大森曹玄”山岡鉄舟”は面白い本である。山岡鉄舟は幕末から明治の剣の達人である。明治天皇の剣術師範・警護主任まで勤めた。幕府の旗本であったが、幕府陥落直前に慶喜の降伏の意思を直接聞き、江戸を戦火から救う為、単身薩長の軍陣を掻い潜って静岡まで行き、薩長の軍の司令官 西郷隆盛に直接会い・和平交渉を成立させた大変な人物だ。まさに命がけの使命を果たしたが、薩長軍が江戸進駐すると幕府過激派から狙われていた西郷の護身係りまでしたようだ。
無刀流という剣術流派を立てた。剣術なのに刀が無いというのは、どんな意味だろう。彼は若くして剣術の達人であり、有名な程であった。しかし生涯、唯の一人も殺していない。幕末期、何人も切り殺した経験のある剣豪が、たかが書生とあなどって、鉄舟に試合を申し込み、試合したことがあった。両者構えあったが、剣豪は全く動くことができない。動けば即切られると分かってしまったからである。その重圧に遂に押しつぶされて降参したそうだ。
これが無刀流の極意ということらしい。気でもって圧倒するわけだ。
これの原型は仏教説話にもある。
お釈迦様は、デーバダッタから何度も殺されようとした。その一例が象を使ったものであった。国王の象のリーダーであった巨象に酒を飲ませて、釈尊めがけて放ち踏み殺させようとした。釈尊は指から、大きなライオンを出して威嚇し、巨象はおびえて、膝を屈した。というものである。
気を煉れば、究極は大変な威力を発揮するらしい。

山岡鉄舟の死に際は見事で美しい。52歳で胃癌を発病、53歳でなくなった。病気末期の死の直前である。
7月17日夕刻、突然入浴したいと言い出し、白衣をきた。皇居に礼拝してから床に入った。
7月18日午前1時急変し、医師は胃に穴があいたと診断した。愈々死にそうだということで、剣術の弟子や知り合が午前3時頃大勢、見舞いに押しかけた。腹部を氷で冷やしながらすごす。
勝海舟が見舞いにくると起き上がり座に座った。道場の稽古の時間を過ぎても稽古の音がしないので、門弟に命じて稽古を始めさせた。門弟は意気消沈で、稽古どころでなかったが、形だけして竹刀の音だけ立てた。子供には学校に行かせ、夫人にはいつものように琴の練習をさせた。自分は起き上がり竹刀をつかみ{いつもとかわらん}と笑顔であった。起き上がるときは手助けが要ったが、最後まで便所に自分で行った。
(胃に穴があくと胃液がもれて内臓を消化していくので激痛が続いている)
午後1時、日課の写経を始めたが、あまりの苦しさと暑さで脂汗をふき、半分書き終わった頃紙に流れ落ちた。ここで医師の勧めを素直に聞いて筆をおいた。
夜になっても本来が強壮な体のためまだ死なない。三遊亭円朝は鉄舟を尊敬しており見舞いにきていた。
皆退屈だろう。おれも聞きたいといい
三遊亭円朝に落語をやれと命じた。
涙ながら声もとぎれとぎれに落語をやったそうだ。
鉄舟はニコニコ聞いていた。そのまま寝具にもたれたまま徹夜し、
明け方カラスの声を聞くと辞世の句を作った。
腹はって苦しき中にあけがらす
7月19日午前9時医師に人払いを要請した。
皇居に向かい結跏趺坐した。
夫人と子供に囲まれセンスで仰いでいたが、センスが落ちた時が9時15分絶命であった。

人間だから病気でいつかは死ぬ。それはやむを得ない。しかし精神は病苦に勝てる。死苦に勝てる。気高さを最後までも維持できるという生き様を鉄舟は教えてくれる。自分の死に恐怖しない。うろたえない。
激痛の中迫りくる死にあっても平常心にいささかの乱れも無い。
ちょうど大輪の花が咲き終わり散っていくようなように、乱れない。
凡人は自分の死に恐怖しうろたえるのが普通だ。それが酷くなると、延命、延命と執着しチューブまみれになり、その後、体が腐っていって死亡したりする。また臓器移植のために不幸な他人の出現を待ち続け、手術後も生涯抗免疫薬を飲み続けたりするケースもそうだろう。このように肉体の生命ばかりを見続け、死から逃げまくり続けると、神を見上げるということができなくなる。

一方鉄舟の生き様にはこれとは本質的に異なる美しさがあるように私には感じられる。
花は散ることに執着しないように、自分への執着がない。咲いていることにも執着がないように、自分の生(我)への執着がない。これを人無我という。我と思っている実体は自分の執着心の中にしか存在しない。執着心(自己愛)の無い所、我も無い。
生は死と裏返しで常に密着している。生まれた瞬間から死は常につきまとう。いつ死ぬかわからないから、今日の時間をより有意義に使う。死苦にまで勝ち生死自在を実証した山岡鉄舟に合掌します。
(注)山岡鉄舟「剣禅話」には無刀流につき書かれている。
事理の2つを修業するに在り。事は技なり。理は心なり。事理一致の場に至る。これを妙処と為す。
無刀とは何ぞや。心の外に刀なきなり。敵と相対する時、刀に依らずして心を以って心を打つ。これを無刀という。