神が手を切る

神教の同志だった人が神教から離れると、神が手を切った、という。この人間と神様の関係はキリスト教の聖書に明快に書かれている。
ヨハネによる福音書 15章1-5節
1 わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
2 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。
3 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。
4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。
5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
1.ブドウの木とはイエス・キリストであり、大神様である。農夫とはエホバであり天照大神である。肚の神である。
2.実を結ぶとは善果・善行・徳の行為、6魂清浄の魂である。神教実行する人は果を結ぶ。究極は成仏であり神人合一の天使になることである。
3.大神様のご説法を聞くと魂は清められる。人によっては、7分因縁が切られ運命も変えられている。全部の因縁を切られず残りを自分の行として残される理由は、自分の努力で因縁(悪癖)を克服しないとその人間の魂は清められないためである。スウェーデンボルグは「人間は外なる人の悪を自分自身の力で除くように除かねばならず、この方法によってのみ、神はその人の内なる人の中にある悪を除き去ることができる」と書いている。外なる人の悪を自分自身の力で除くのが「心の掃除」。内なる人の中にある悪を除き去るとは「魂を磨く」ことである。心の掃除を人間がすれば神様が魂を磨いてくれる。自分自身の力とは「肚を作って神教を実行すること」である。
4.5.人間は自分の自我では決して、神の国に行けない。自我では本当の善行はできない。名妙法連結経のお祈りでないと救われない。人間は神様につながっていないと真人間になれない。神の啓示が聞けない。畑でハマグリを掘っても得られない。
旧約聖書 詩編 1編1-6節 にも表現こそ違え同じことがでている。
1 いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず
2 主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。
3 その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。
4 神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
5 神に逆らう者は裁きに堪えず/罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。
6 神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。
これらは霊界での純粋な表現であることに注意する必要がある。大神様も良く実相界から説くといわれている。