天照皇大神宮教の戒律

 天照皇大神宮教の戒律がどうなっているかは外部の人間にはうかがい知れない。ただ大神様の言葉からある程度推察はできる。

1.行いと心と口を一致させる。仏教の《身》《語》《意》を一致させる、という教えと同じだ。
 仏教の《身行》とは《行為》のことであり《行い》のことだ。
 天照皇大神宮教の《口》とは《言葉》のことで、仏教の《語」と同じだ。
 仏教の《意》とは《心》のことだ。

2.行為としての禁止項目を定めると狭すぎるし、各人の事情(負っている因果)が異なりすぎて定めがたい。また理想が達されるまでの過程も認める。
 各人の良心と真心に聞いていけないことは判断しろという指導である。そして日々反省を欠かさず、自分の至らなさと内在する悪を見つけて、反省・懺悔をする。信者同士がそれを行い各人の魂を向上させる。これを《共磨き》とよび、信者の家族間でも行ったりする。良心が基準であり、人間として正しいか判断するのが基準であるという。自分についた神様が指導してくれる。

 親に孝行、子に躾、人に尽くし、労働にはげめというような、さまざまな世の道徳とは変わらない。道徳とは神と同じ徳であり、尊重する。ただ他宗では自分が実行しないで言っているが、自分(サヨ)は実行してから説いている。自分がやってきた道が、そのまま《教え》である。と説いた。
 例えば酒、タバコは飲まないのが良い。魂が向上していけば自分から飲みたくなくなる筈。ただ酒好きの人でも善人であればその場その時に神様が必要としてお使いになることがある。神が長い手綱を持ってコントロールする、代用品という表現である。代用品でも魂を磨いていけば真正品(手綱が短い)になっていく。だから禁酒という戒律は定めない。真正品では禁酒に自然になる。
 他人の物を欲しいと熱望すれば盗難したのと同じと戒めた。そこで乞食根性を植えつけないため子供に他所で菓子などを貰うことまでやめたほうがいいと指導。

 夫婦以外の恋愛感情は行為として実現されなくとも邪淫であるとして個別には厳しく指導している。心と行為を同等においているのが注目すべきポイントである。仏教の俗諦では行為の悪を禁止している。真諦では行為のみでなく、心と口での悪の現れも警戒している。イエスキリストは他人の妻を見て欲情すれば姦淫になるといましめた。
 堕胎は残酷な殺人であり、避妊すらも殺人に準じているとレベルの高い人には個別指導している。

 仏教の戒律を調べると、胎児は受胎後49日をすぎると人であり、堕胎は殺人罪。49日未満は「人ににた者」であり、堕胎は同じく殺人罪である。

3.六魂清浄、六根清浄
 六魂は法華経で説いているものとは異なる。法華経では修業すれば神通力が得られると説き、目清浄、耳清浄、鼻清浄、舌清浄、触覚清浄、意(心)清浄での各々の神通を解説している。大神様は
 ほしい、おしい、憎い、かわいい、好いた、すかれた
 この6つをなくせとは言わないが、清めよとといた。これはスウェーデンボルグと似ている。
 スウェーデンボルグは《所有欲》《自己愛》《結婚愛を破るもの(邪淫)》を悪の根本と書いた。
 《ほしい》、《惜しい》への警戒は物欲とか所有欲に溺れないことを戒めたとかんがえられる。また仏教の不貪欲と無執着の教えと同じに思える。
《憎い》《かわいい》を野放しにする というのは自己愛の爆発ということで、スウェーデンボルグが悪の一番の根源と教えたものである。《憎い》のは自分に敵対するから。《かわいい》は自分に従う、自分を敬う、自分を愛するからであり、相手の中に自分を見出す故にかわいい。つまり、《にくい》《かわいい》の根源は同じであり、自分を愛する心、自己愛である。この自己愛を薄めなさいと説いたと思われる。自我をつのらせ我の舞、我の天下をしていると地獄に一直線に落ちると説いた。
 《好いた》《すかれた》の警戒は生殖本能への警戒であり、自由恋愛への警戒であり、不邪淫戒と本質は同じようだ。神の家庭を作り、神の子になるように子供を産み育てよと説き、そのために為すべきことを様々に教えた。
 自分と相手の因縁をみて、ともに神様のお役にたてるような家庭を作ることを目標に結婚相手を選べと指導した。河口慧海も在家仏教で、夫婦ともに仏教を信仰しろと説いたのと同様だが、この教団はもっと徹底している。

 結局、すべての行為は心が原因となり行われるから、大元である心を清めよということだ。行為は木で言えば地上部分であり、心は根である。心を清めるには上の6つに注意せよと言うことだろう。心を清めることを、心の掃除、悪癖を直す、といい、これを行うことを《心行》、または単に《行》と言う。自分を反省して直して行くことが出来ていない人を代用品として、心行を実行して本物に変わるようにと次のように説いた。
 「己れ己れの今まで来た道振り返り反省してみりゃ、ああ恥ずかしや恥ずかしや。世界平和のおんために、己を捨てて国救いやりますやります言うた事がどれだけ実現しておるか。なれど役座がこうして天父が使っているが同志の者も、その人が偉いで神の召集受けたと違うのよ。今までは代用品でやっているが、生きた宗教おいきるにゃ、初めは代用品でも構やせん。行けば行く程本物に変わらにゃ行けぬ行、変わらなけりゃ行かれぬ天国を、己れ己れが自覚して行じておいでよ天国に。」

 仏教でもキリスト教でもある程度学習しないと真意はつかめない。大神様は胆の神様より子供でも老人でも判るように易しく説けと指示されていたようだ