誤謬化された真理ーー悪人正機

誤謬化された真理とは、信仰の教義が当初の(釈尊とかキリスト)の教えから遠ざかり、似ても似つかないものにまで改変された教義のことである。
仁慈がなくなった教会の末期で、誤謬化された教義の一番主要なものは以下のようなものである。
人間はいかような生活を送ったとしても信仰が救える。死ぬ間際でも可能である。罪から一瞬で清めることが可能である。人間の救いには、彼がどのような道徳生活を送ってきたかは無関係である。悪魔のような悪人でも一瞬で神の天使にできる。
これはスウェーデンボルグからの抜粋である。(例えば天界の秘儀19巻P175)
この信仰という所に{南無阿弥陀仏を唱えさえすれば}と置き換え、神の天使を{西方極楽浄土に生まれる}と置き換えれば、我々に馴染み深い教えがでてくる。
このように悪人正機はスェーデンボルグによっても、典型的な誤謬化された真理であると断定されている。

真理はというに
1.人間の改良は徐々に行われる。
2.改良は自分の努力により悪を遠ざけ続けることだけで可能である。
3.何が悪で、何が善であるかは社会の道徳により教えられ、進んでは聖書(お経)により教えられる。
4.悪とは自己愛であり、所有欲であり、煩悩である。
5.悪を認識するには戒律を知り、守ることが必要である。
6.主要な戒律は
  殺さない、盗まない、結婚愛を守る、嘘をつかない、理解の能力を破壊しない
  神を信じる、他人を愛する(同情心を持つ、他人を助ける)
といったものであり、仏教でもキリスト教でも大差はない。
7.改良により心が澄んでくると、現世での幸福は増す。しかも死後は天国に生まれる。
天国とは善人の霊ばかりが住んでおり、お互いがお互いの幸福を自分以上に尊重しあう霊の世界である。根っからの悪人はこれに耐えられず窒息してしまい、自ら地獄に行こうと願う。
8.悪を実行するたびに幸福から遠ざかる。死後は地獄に行く。そこでは互いが血を血で争い、自己のみ利益を得ようと奪い合う。他を征服しようと殴り合い殺しあう。霊なので苦痛を受けるだけで死にはしない。

河口慧海
戒律を守らなければ法身がない。法身がなければ仏身がない。仏身がない所には仏教がない。つまり戒律実行のない所に仏教はない。
といっている。