行は進めば進む程難しくなる

 人間から神様になる。別の表現では仏になる。成仏。即身成仏。悟りを開く。天使になり神に使われる。神の赤子になる。真人間になる。これらはいずれも同じ意味で使われる。
 この過程で、その人物が生まれながらに持っていた「動物的な本能からくる性質」、人生で学び経験して身についた「知識」、前世と先祖由来の「癖と気質」なども捨てる必要がある。自分の夢と乖離した現実の日々、心の奥に積りに積もった潜在意識にある不満にも気づく必要がある。これらを取り去ると自動的に、神様(天界)からの啓示を受けるようになる。神に使われる。地下20mには太陽の光は届かない。しかし地上にでれば、人間誰でも光を浴びれる。天の放送がいつでも受信できる。人間は皆そう創られている。大神様はいわれた。
 みな魂の段階よ。その人、その人に魂の段階じゃから、「神はない」というて言ったら、(その者には)「ない」と言う、ないという者には神様はないよ。ない所まで自分が落ちちょる、あると思うて信じたら、あるよ。常に自分は神と共におれるんで、今度は

 大神様は、この道を
 ステップ1.口と心と行いを一致させる。
 思っただけを言い、言ったことは実行する。口で罪を作らず、罪になることを思わず、罪となることを行為として実行しない。。
 例えば、真人間になれと説く人間は、まず自分が真人間になって、それから説け。家庭の平和を勧める人間は、自分の家庭に平和を築いてから説け。と言い、大神様は全てにおいて、説く通りのことを実行されていた。
 一例:大道場建設時、同志に節約を呼びかけた時、厳冬期にもかかわらず、大神様は自室に火鉢ひとつすら置かず、チリ紙も日めくりカレンダーの紙で代用する程の節約で、建設醵金に足した。大神様の生活、一挙手一投足が神教である。すべてにおいて、一分のゆるぎもなく完璧!説かれたことを、すべてそのまま自らが実行しておられる。5度に及ぶ海外布教でも観光は実質ゼロ。初めは海外同志が観光に連れて行こうとしたこともあった。しかし肚の神様が怒り、台無しにして今後は誘わないようにした。一度目のハワイ布教時、ある人が夜景見学に連れていった。大神様は体調を崩し気持ち悪くなった。アメリカ本土2年巡教では、観光は一度だけ。カルフォルニアで鮪釣りに同志が連れ出した時は、それまで良く釣れていた漁場が荒れだし、サメしか釣れなくされた。このような事例が広く知れ渡り、海外同志も無理に大神様を名所に案内することがなくなった。海外巡教の最後である36カ国9ヶ月に及ぶ世界巡教では、パナマ運河を見ておけという肚の神様の指示で、宿泊ホテルの直ぐ近くの運河を見てお祈りした。それだけ。全精力を説法と、個人指導、その地の悪霊済度の祈りにあてていた。海外同志になった人は、一見して大神様が神様であるのが判った人が多い。そして教えられたお祈りで直ぐに”霊体験”をし、温かい幸福感を味わっているケースが多い。

 仏教の河口慧海も、まず自らが救われ、それから初めて人を救えると説き、自らそれを実行している。自分がその宗教で救われたという実感がないと、その宗教に確信が持てない。確信が持てないと信念が持てず、実行に力が出ない。従い人も救えない。
 天照皇大神宮教の布教活動は、自分が実行できているだけ、自分が体験しただけまでを説くという原則があるようだ。一方これに縛られすぎると、外部の人間に、これほどすごい宗教(釈迦の再来・キリストの再臨)の全体像が伝わらないと言っていた人もいた。

 言行一致は大切だ。邪教、悪魔教は用語は仏教、キリスト教などを使い、教義も一見すると世界平和を唱ったりして立派に見える。しかし実際の行動は、真逆である。オーム真理教、統一教会、など刑事事件にまで発展したのもある。教祖・教団幹部の生活を見れば、正教か邪教かは直ぐ判ると言われる。裏に回ると、呆れるという教団がほとんどらしい。天照皇大神宮教は本物の正教である。自分を反省して、神様を向き、神様に向かって人生の日々を歩むという教義・実践の、この教団と、人を騙しても活動資金を得ようとする、手段を選ばないような邪教集団とは、正反対であるのは明白である。
 神仏に誓ったことは必ず実行しなければならない。大神様の初期の行で、一人子のこと(義人氏の部下による軍機密書類の紛失事件。義人氏はスパイ容疑で軍事裁判にかけられた。冤罪事件)で財産もいらないから救い給えと祈ったことがあった。神様はそれを覚えていて、後日田畑の大半を他人にあげてしまえと大神様に命じた。実際登記所まで行き登記書類を作り提出した。(昭和20年2月20日)。家に帰ると肚の神様は、これで誓いは果たされたから、登記所に行き、さっきの件を取消してこいと命じた。大神様は抵抗したが許さず、取り消しさせた。(天声125号P11)。財産がないと自費自弁での布教活動に支障がでるためである。神様の試験として、心行では財産を捨て、現実では財産を手段として残す。この模範である。
 旧約聖書アブラハムが長男イサクを生贄として火に入れろと神様に命令され、実行しようとすると、山羊が現れ、イサクは取り消され助けられる話がある。何か似ている。

 ステップ2、六魂清浄になる努力を続け、過去・現在の反省懺悔をする。死ぬまで日々の反省懺悔を欠かさない。天照皇大神宮教でいう六魂とは、欲しい、惜しい、憎い、かわいい、好いた、好かれたという人間の本源的な心をさす。これらを清浄にするのが大切。心の掃除とはこれへの努力である。言うは易し。行うは難し。どのひとつとして克服は非常に困難である。お祈り時「我が身は六魂清浄なり」と唱える時ほど、心苦しく感じる人も多いと思う。

 A.欲しい、惜しい。
 金がほしい、金を出すのが惜しい、子供が欲しい、子供が手元から離れるのは惜しい、というようにこれらは普通ペアーで考えられる。しかしこれらはもっと広い。
 欲しいを清浄にするとは、(自分の物、運命、境遇などに満足し感謝する。足るを知る、限度を超えて貪らない、他人の物・財産、他人の運命・名誉・幸運、他人の才能・美貌を欲しがり羨むということをなどを自心から滅ぼす)。自心に「盗もう」という本性がないかを点検し、滅ぼす。自心に「欲しがり続ける」本性がないかを反省する。大酒を飲む、いけないと知って煙草を吸い続ける、いけないと知って甘いものなど糖質を過剰に食べてしまう、これらを反省する。自分の前に、旅館などでごちそうが並べられた時、喜ぶようではまだ本当の神行に入っていないと大神様は言われたことがある。事実、山口刑務所での御行の最後にこのような神様の試験がでている。また本部で行している人が「餅を食べるぐらいしか楽しみがない。」と言った所、大神様にきつく叱られたこともある。
 自分の物を不当に奪われることを防ぐことは、欲しい、おしいと矛盾しない。正義の実行も求められる。大神様も自分の山の境界を隣の所有者が勝手に変更して盗むのを許されなかった。
神様に助けて欲しい。誰かに手助けして欲しい。これらの依頼心の克服もある。なさるがままの肚を作れとも言われた。神は祈らずとても助けん。神様が助けてやろうと言う人間にまで魂を磨き、紱を天に積めば、神様は助ける。求める世界でなく、神様の求める人間にまで上がってこい。とも言われた。
 欲しいの奥には得をしたいという利己心がある。このぐらいはという甘えと油断がある。
 惜しいを清浄にするとは、(出すのが惜しい。損をしたのはつくづく惜しかった。死なれた子供は今なら中学生だとか思い死なれたのは惜しかったと思い続ける。自分の物と思い込んでいる物を無くさないように常に気を配る。自分の体が惜しい。命が惜しい。)などすべての執着を清めることが入る。すべて天父のもの、自分の肉体までも天父のもの、という話もある。自分のものは肚と真心だけという説法もある。本来錯覚で自分のものとした一切のものを惜しむ、執着する。その自心を反省する。配偶者・子供の過去・現在・未来の境遇、運命、心にまでも自分の執着は及ぶ。これを清めるのは非常に困難なことではある。
 惜しいの奥には誤った自己の物という認識と損はいやという自己中心の本性が潜む。
 惜しい・欲しいが清浄になると、自分のためには浪費せず、物を大事に生かして使う。人のため、世のため、神仏のためには惜しげなく使うようになる。物、金への執着がなくなる。

 B,憎い。かわいい。
 生んだ子はかわいい。継子は憎い。というようにこの2つはペアーである。自分がかわいい。他人が憎い。という自分だけ、自分だけという強烈な本性を清める。仏教では無明といい、これの完全克服は最困難とされている。スウェーデンボルグも自己中心、利己心こそが最大の悪魔であるといい、地獄の主であるともいう。「油断すれば邪の神に使われる。」とは利己心・自我は根絶できず、油断すると直ぐに自分を支配してしまうことのようだ。仏教では自利利他円満を目指せという。天照皇大神宮教はもっと徹底していて、神行とは利他なのよ。神行とは利己を捨てることと説く。
自分が可愛い。自分が投影されているものが可愛い。(自分の血族だけがかわいい。日本人だけがかわいい。など)自分を確認するもの、人、できごと、過去、地位、名誉が可愛い。心地良い。お世辞を喜ぶ。 これらを喜び求め続ける自己の心根を反省して清める。母親が腹を痛めた我子を愛するのは、動物の本能から由来して理屈抜きに強烈な愛情である。これの克服は至難であるから、反省を続けるしかない。
逆に自己の反映されないもの一切を憎む。悪人だと神仏までも憎む。かみの教え、仏の教えをあざ笑う。自分の知識、判断こそが最上と自惚れる。頭がいいと自負する人程おちいりやすい。学者と宗教家ほど救われない。いい学校にいくほど落ちやすい。とも言われた。
 自分に害をなす者を憎む。害をなした者を憎み続ける。これを「前世では自分が逆に加害者として同じ害を他人になしていたかもしれない。これは借金払い。」と考え、克服する。これが感謝にまでなれば清浄になったのだろう。
 不渡りを掴ませられ、自分が倒産しそうに成った時、相手にどうすれば感謝できる?と思った人もいた。(大難が小難ですんだ。自分や家族が死ぬところが経済的損失で代替してもらえた。そこで感謝が湧く。この運命の振り替わりが見える、操れるのは大神様だけである。大神様時代の同志はこういう直接個人指導を受けた人もいた。これがなければ体験できない心の行が出来た、これも行と思えば有り難い)
 憎い、可愛いを完全に清浄にできるのは神様しかいない。それに近づく努力を続ける。これが清浄になると、善を愛し、悪を憎むようになる。自己が入らず公平無私、博愛平等になる。自分にたいする執着がなくなる。生も死もない世界になるのだろう。

 C,好いた。好かれた。
 普通は異性との関係ととらえる。異性を求める、惚れやすい本性を反省しては清める。恋愛はフラッシュ光のように強烈に心をくらますとも言われている。配偶者間では、お互いどれだけ好きあっても良い。それ以外への警戒と神教による克服が大切なようだ。恋愛感情を理性でコントロールするのは不可能である。恋愛を起こさないように、心を清めよという教えであり、邪淫をしない教えでもある。種族保存本能に由来した性癖を清めるのは困難である。しかし清めなければ神の国には行けない。
 人に好かれたい、良く思われたいというのが、見栄、体裁の元になっている。これを反省して清める。
 これが清浄になると、夫婦相和し家庭平和になる。スウェーデンボルグは、愛し合っていた夫婦は霊界では、まばゆい最高度の天使となって現れる、と書いている。

 ステップ3,利己心を捨てる.自我を捨てる。
 自我を捨てなきゃ神国には入れない。
 これが行は行けば行くほど難しい。ということなのだろう。キリストも弟子に「完全になりたかったら、すべてを売り払い貧しい人に与え、そのうえで私についてこい。」と説いた。
 天照皇大神宮教でも「神国のためなら裸一貫、何もいらない。いつ何時命捨てても惜しくない裸役者になって、肚と祈りと真心と3つ揃えて無我で来い」というような説法がたびたびされている。無我とは我を捨て大神様を信じきる。その教え一筋に生きることである。仏教の高名な僧達に「取経僧」がいる。真実の仏教の教えを求めて、すべてを捨てて、命を捨てる覚悟で中国・朝鮮・日本などから、未開の辺境を超えてインドを目指した人々である。義浄によると、約60人中、帰って来られたのは数人程度だったらしい。神国のためなら裸一貫、何もいらない。いつ何時命捨てても惜しくない裸役者とは、そのレベルの覚悟を神様が求めているわけである。天照皇大神宮教も入り口は易しそうだが、奥に行くと、聖諦、菩薩10地の成就という所に行く。神(仏)になろうというのだから当然といえば当然。実に「行は進めば進む程難しくなる」。この修業を普通の家庭生活、職業生活をする中で、行う道を説き示された。

 大神様は一方では「自分というものを認めないとつまらない。自分の収入の範囲で生活し、人に迷惑をかけるな」という自立原則も言われた。財産・職業の放棄を勧めるような教えではないと良く注意されてもいる。家族の生活も考えろというように常識も大切で、人間の道を踏むと強調されている。「寒うさえなけりゃ良い。ひもじゅうさえなければよい。」というように衣食住に心をとらわれないのが大切。。家庭生活では相手を尊重して思いやり感謝する。職業生活では会社に感謝し、顧客に感謝し、従業員に感謝し、私利を考えず、誠意を込めて仕事する。損得にこだわらないで真心ずくしの対応をしていくことが利己を捨てたことになる。現実生活のあらゆる面で利己を完全に捨てることは人間には不可能だ。これができるのは神・仏に近い人だけだろう。仏教ではこの境地を、菩薩地「極難勝地」と言っている。
 根本仏教の中心は出家僧侶団であった。家族・財産・職業を捨てて、魂磨きとお祈りを専門にする集団である。彼らの生活は信者の寄進によって支えられていた。僧が仏に近い程、この寄進は功徳を生んだ。 マハーカーシャバ(釈尊の後継の仏教僧侶団首座)はらい病者が隔離された地に托鉢(その日食べる物をもらう)を行った。彼らに功徳を積ませ救うためである。彼は国王すら寄進を願いでる程の聖人であったが、わざわざ人々が忌み嫌う所の人々の所に行った。この出家僧侶団と寄進の関係は、僧侶がちゃんと魂の修行をして、社会に功徳を与えうるまでになっていることが前提であり、それが崩れると、偽善と詐欺に転化してしまう。これが行き着いた末に、神様は大神様として現れ、職業・家族・財産を持ったまま、魂磨いて神に行く神行の道と、救世のお祈りを教えられた。しかしこの道も進んでくると、簡単な平易な道というわけではない。

 《共磨き》により、魂の裸になり、各自が包隠さず家庭の出来事など洗いざらいいろいろ喋り出す。すると各自の家庭の経済事情・職業事情・家族事情・価値行動基準などが皆に知れてしまう。金持ちもいれば日々小金にも窮する人もいる。失職した人もいれば大企業の幹部もいる。それぞれの家族が共に行じお祈りし自己反省に励みつつ、仲良くやっていくことが教義である。又各自の生い立ち、人生行路から生まれた各種の価値観・社会知識や洞察力の差・考え方の差異も露呈する。服装一つにしてもサラリーマンで営業・管理畑の人は背広は毎日着ており仕事着と思っている。しかし現業の職業の人は背広は晴着で正式な場で着るものと思っている。この感覚の差により思わぬ行き違いが生じたりする。また管理職が長かった人は知らず知らずに、「上から目線」の發言をしがちである。言われた人は良くは思わないし、まして自分の家族のことをあれこれ言われると、怒りさえするだろう。神教はこれらを教材として、行の相手として、自分をみつめ反省し、内在する感情の根とその大本の自己愛を捨てていくことを教えているが、実行は時に困難であり支部の和が乱れてしまうことになる。その結果、自分と家族の貧困・困窮・病気・苦労などは「心の行」として共磨きで積極的に発言する事が多い反面、成功体験や金持ち・社会的な地位の高いことなどは黙り、場合によっては偽りまでして隠しているケースが多い。人が羨み、嫉妬されると居心地が悪くなるためである。神教で裁きあい、針のむしろとなると、《行》どころでなくなる。これは神中心でなく人中心であるためだ。
 神教には専任の教師,講師がない。これは大神様の指示である。人間の魂には上がり下がりがあり、たとえ誰かを先生と決めても、その人がいつ先生の価値がなくなるかわからない。そこで自分の欠点を自分で見つけるのは困難であるから、互いにそれを指摘しあい、それを素直に聞いて自分を直すことが大切になる。それには自分が偉いとか間違っていないとかいう、思い上がった心があってはいけず、素直に受け入れる心が大切である。この指摘し合う話し合いを《共磨き》という。

 《磨きの会の平和》
 「家庭の中でも磨きの会でも、人の悪い所はかばってやって和になってゆくのが本当の磨きの会だ。その悪い所を掘り出し掘り出しやっていては行かれない。それより自分の悪い所を直して魂を磨いて人に慕われるようになれ。夫婦でも親父の悪い所は女房が隠し、女房の悪い所は親父が隠し合わにゃならん。あの人が間違ったことをしよると思うても、あの人にもこの人にも神様がついとるんじゃから自分に小言の言いたい本性があるんじゃから、そんな所を見せられたんじゃ、と思って行ずるようにせよ。それを真正面からガシガシやったら生涯でも喧嘩するようになる。喧嘩するな。人身攻撃するなといったら、それをやめてだまる行をして自分だけ行じていれば後は神様が解決する。神様がちゃんと上に控えてじゃから、人が見てもうらやむような和やかな人間になれ」と指導された。
 実際の教団運営では「人の割当・係のアサイン・資金の確保」なしには行事や事業、施設の建設・維持管理、会報の発行などの実行は困難だ。一切の会費を教団は取らないという宗義だから、運営は世間一般の感覚では不可能に思える。同志の志願・無報酬・自弁自費、事業収益、自発的な醵金・神様の後押などで実行されているようだ。これが原則であるが、任務と責任ができ、時間的・体力的・経済的無理を押して実行していると、自分は良くやっているという感情と、やらない人への不満が生まれがちだ。本当は尊い神の大聖業・神事に参加させていただけたという感謝と、神様に会えたという人生の感謝が湧くはずが、湧かない人もいる。神様への感謝が薄いと言われる所以だ。また家族内でも神教に対する温度差はあり、どこまでやるかと摩擦が生じることもある。仏教出家僧侶団では清一色であったものが、神教同志集団では崩れてくる。勿論6魂清浄の人ばかりになれば、問題は一切起こらない。そこまで行かない半凡人・半神教同志の集団・家族では常にこの問題が生じる筈で、それを各自が材料として心を磨く機会にして乗り越え成長していくのが神教である。死後に残る魂を清浄にすること、徳を積み、罪を懺悔しておくことだけが重要なのだから、現世の財産や地位、時間は気にするなという。よく出来ている。しかし摩擦はある。これが一つの難しさになる。人を見ないで常に神様を見て行ずる。人中心でじゃない、神中心の行をせよとお説きになる所以であろう。もう一つは同志間の連帯感が重要で、各種修錬会・行事・ご奉仕への参加がこれを育む。連帯感こそが摩擦を乗り越えさせる。精神修錬をして世界平和に志すという、各自の自覚と挟持も大切だろう。
 神の国の言葉は「はい、ありがとうございます、申し訳ありません、やります・やらせていただきます」の4つだけと言われる。ここにお断りの語がないのは部外者には奇妙だろう。しかしこれは実際的な意味を持つ。なにかの依頼や結婚の話が起こった時、それを断ったり拒絶することが、一つの転機となり、その家族が同志集団からはずれることが時々起こるようだ。始めると進むしかないというのが、行は進めば進むほど難しい、といわれる意味の一つだろう。

 「やります。やらせていただきます」の肚をつくる。これが大事とよく言われる。肚をつくり、まずできること(お祈り)から実行する。すると次第に次第により多くの事が実行できるようになり、毎日が嬉しくて楽しい境地になる。仏教でいう菩薩初地の歓喜地である。天照皇大神宮教では、これを体験する人はザラであり、非常に多い。その理由は、お祈りに法力があり、悪因縁が切れて前に進む事ができるためである。無我の舞がでるのはこの辺りのようだ。ただこれが何ヶ月も永続する人は少ないようだ。
 肚を作るとは、神様に白地手形を出す、白紙委任状を出すということである。利己を捨てる決心をすることである。これは困難である。二股かけては行けない神の国。金財産、名誉地位、見栄体裁から心を離すことである。聖書に「人は2人の主人に仕えられない」と同じである。一人の主人は神、もう一人の主人は自己・利己(悪魔)である。肚ができないと生涯かけての神行はむつかしい。このため「神国大事の肚」を如何に作り、維持強化していくかが実際上は大切であり、大神様の指導のもと、教団を作り発展させていった若神様・姫神様はこのことに特に留意されたようだ。

 スウェーデンボルグは天的な人、霊的な人、自然的な人という3階層を詳しく解説している。天的な人だけが神仏の直接の声を聞き、自己自我を捨てる所までいける。霊的な人は学ぶことで良心に従う。自然的な人は社会常識に従う。現代では天的な人は極極稀である。神教では胎児・幼児の時に神様を教え自我の我儘をもぐことを教え実践させる。これにより天的な人(神の子)ができる。「神の国を作るにゃ神の子を作れ。神の子を作るにゃ、神の子の親を作れ。」実に深い神言である。
 この所が仏教・キリスト教との差異でもあろう。これらの宗教では霊的な人を目覚めさせる方法論が充実している。知的な学習と瞑想、戒律の厳守により理性により良心を作らせる。この理性的良心により自己本来の本性を直していく。神教初期に神教講座が盛んであったのは、この人達の世代に、仏教などの向上法に詳しい人が多かったのも理由だろう。