人間道

行、行、人間道を離れた行じゃない。人間いう名がついたなら、人間道を立派に歩めちゅうて、人間道を歩いていくんじゃから一番みやすいんよ。人間道をはずれたことをやれちゅうんじゃない。神様が嫌うような事をしちょいて、それで人間が成功するはずはないよ。「やめ」ちゅうたらやめりゃええ。「行け」ちゅうたら行きゃええの。自分を直しちゃ直しちゃ行じてゆくのが神行よ。
大神様は度々このような説法をされている。何かわかるような気がするが、(自分の魂レベルでは)本当は良くわかっていない。山陽道、名阪道ならわかるが、人間道というのが、まずわからない。
「人の道にはずれている。」という表現がしばしばある。夫と子供を捨てて、若い愛人と駆け落ちする妻などは、そう言われる。老人の弱みと愚かさにつけ込んで、お金をだまし取る人々、豊田商事などの詐欺、振り込め詐欺をする人間もそうだ。極端に悪いことをする人間は、人の道にはずれている。自分の嗜好のために、家族の犠牲を顧みない人はどうだろう。大酒飲み、ギャンブル狂、これらは、人の道にはずれている。画家が絵の研究・制作に没頭したり、研究者が研究に没頭して、家族を放ったらかしにするのは、どうだろう?音楽のために、夫・子供を捨てて留学したりする人もいる。会社の仕事で、単身赴任で海外に長く留まるケースもある。どこまでが人の道を外れ、どこまでなら、踏み外していないのか、その境目はどこにあるのだろうか?この基準は自分の良心しかなさそうだ。
良心を働かし感度を上げるには、まず最初に心がけが必要。
1.子供をちゃんと育て、正しい人間として躾け、教育する。2.親に孝行する。3.仕事を手抜きしないで、誠心誠意行う。4.家族に真心で尽くす。5.正しい神に正しいお祈りをする。6.嘘を言わない。約束は守る。7.盗みをしない。借りたものはすぐ返す。支払いを早くする。8.生物をイジメない。人に親切にする。9.浮気しない。誘惑しない。10.物を大事にし、活かして使う。お金も活かして使う。食べれる物を捨てない。11.生活を安定させるための貯金を持つ。クレジット・ローンは極力避け、現金払いにする。お金は大事。12.悪口を言わない。告げ口しない。愚痴らない。13.人の心を卑しくしたり、卑猥にさせるようなことをしたり、言わない。14.欲張りすぎない。執着しすぎない。羨ましがらない。15.威張らない。人を軽蔑しない。見せびらかしたり・見せつけるようなことをしない。16.出てきたことは直ぐに処理し、持ち越ししない。17.謙虚さを忘れない。上手く出来た事でも、神様がやらしたことであり、自分の功績であると、盗まない。18.和を乱すことをしない。19.正しいことは貫く。正しい人に味方する。20.健康に気を配り清潔にしている。21.すべての人・物・出来事に感謝を忘れない。22.相手や回りの人の立場・利害・気持ちを思いやる。(恨まれないと生霊が来ない。)23.場所にふさわしい服装をし、上品に振る舞う。(自然に上品が滲み出るようになる)
などなどいくらでもありそうだ。この種の様々の注意を大神様はご説法に折込まれている。特別な因縁の人でない限り、人と変わったことをする必要はない。人並みの生活・仕事をして、日々お祈り・反省懺悔をしては心を磨く。家族を棄てて出家したり、髪を剃ったり、座禅断食したり、難しい経文を読んだりなどする必要はない。普通の生活、身成をし、家庭を持ち職業を持ち自活する。「やります。やらせていただきます。」の肚を作り、日々お祈り反省懺悔の生活をしていくと、神と直結し、何をしてはいけない、何をすべきかが、ひとりでに判るようになる。磨きの会がこれを気付かせるのに役立つ。何がいけなかったのかが痛切にわかる。心から直ることで、単なるお題目でない行動・態度・口調が滲み出るようになる。魂が非凡になると、生活にも滲み出る、あの人はどこか違うと気づかれることもある。これが「同志」の面目なのだろう。まとめて言えば、人間道とは、心の掃除をして神に行く道のことである。
(注)仏教では慈雲尊者法語「人となる道」・「十善法語」がある。「十善法語」は在家仏教の最高の指針である。これは慈雲尊者が皇后を始めとした女官たちへの説法を依頼され、宮中で在家の道を説いたのを、お付きの女官が筆録したものである。彼らから多くの尼もでた。慈雲尊者は不思議な人で、スウェーデンボルグ30歳の頃に生まれて、江戸中期の日本で、霊感のみでサンスクリット語に通達した仏教の大聖人である。晩年に雲伝神道という神道を開いた。釈迦に帰れと、釈迦本来の教えを追求・生涯実践した人物が、仏教外の流派を開くなど、普通想像すらできない。仏教から密教に通達し、神道を見ると同じだということが判ったのだろうか。青木要氏の大学時代の先生は西晋一郎であるが、西は慈雲尊者研究の第一人者であった。今まで積読中であった雲伝神道集を開くと、序文に「国常立尊の御めぐみ。天照皇大神の御いつくしみ、我が身にあふれて。感涙をもよほすなり。」などと書いてあって驚いた。
天照皇大神宮教のお祈りは神仏一体のお祈りと大神様は言われた。
(注)行とは修行のこと。昔は出家し修行したが、天照皇大神宮教は日常生活のいろいろの出来事を反省しては心を磨く糧とする。常に自心と対峙しては直す。甘やかせて油断しない。これが行で、死亡時天国に生まれられる。
1.対人間:相手(配偶者、子供、親、隣人、上司、競争相手,取引先等々)との間に出てくる様々な葛藤を通じて、自心を反省しては直して磨くこと。行というのは自分のことなので、相手のためにしてやるのだという考えがあれば、行にならない。相手を行の相手として暖かく迎え入れた時、自分がこの相手によりこの行ができるという感謝が出た時、相手が変わってくる。相手が変わることを求めないで、徳を積む。これが行の道。
気づく事は人により様々。自分が神行より世俗の成功に憧れていた本心、相手に愛されたいという心、嫉妬深い独占欲、自分は出来た人間という自負、労働・働くことへの恐怖心、人に対する羨望根性、汚い物を掃除するのが嫌という我儘、自分だけいい思い・美味しい物を食べたいという利己主義、などなど。夢で気付かせられることもある。
泥棒被害に遭っても、泥棒を憎まない、盗られた物を惜しまない。自分のスキを戒め、悪因縁の切れたことを喜ぶ。起こってしまった事は悔やんでも取り返せないから、心を向上させる糧ととらえ、これも行と感謝する。
人間には自分を認めたい、認めてもらいたい、自分は正しい、自分がかわいい、得をしたいという強烈な本性がある。これは生存本能から来ていて、根絶はほぼ不可能。油断すると、直ぐにこの本性(邪神)が出て、引き落とす。自分のために物事が回っていると、つい錯覚するが、この錯覚程、快いものはない。(神様が世のために回している)。この快感は悪魔の甘露といわれる。一例として、同志同志は拝み合いで挨拶する。この時、自分が良くやっている、磨かれてきたという自負があると、自分の内なる神に相手は拝むのに、自分を尊敬して拝んでいると錯覚して増上慢を募らせてしまう。この種のことは非常に多くのバリエーションとバージョンがあり、必ず自分にもある。この反省は日々必要。反面この本性は人間のエンジンでもあり、活力の源でもある。これを善い方向に使う。難しいが、六魂を根絶するのではなく、清浄にする。(根絶を説くのが老子道教)。仏画では仏の下に馬や象がいる。馬や象、ラクダなどは、本能由来の欲望・自己保存を核として現世を生きるために必要な常識・知識・知恵・判断力などを総合的に表す。この現世知が下になり、仏心に仕える手段になった状態が六魂清浄。逆にカネ儲けなどに夢中になると、現世知が上になり、仏心が下になる。180度ひっくり返る。下(地獄)に頭を向け、神(天国)に足を向けている。しかしカネ儲けなどの現世知を無視すれば生活していけない。犬も馬も必要。そこである人は、一日を区切り、カネ儲け時間、神行時間にできないかと考えたが、これは不可能。カネ儲けも行と捉えれば、誤らないだろう。「神国のために利己を完全に捨てれば、神はただ使いしない。」という神言はある。この辺は難しすぎて良く解らない領域だ。
「神行と日常生活とを一体化せよと説かれましたが、現職に追われ、祈りにも徹しられない、心の掃除もできないで、神行の車輪は動かず、現職の方ばかり回っていると、とうとう転覆してしまいます。ひっくりかえってしまってからでは、遅すぎるので、絶えず調整していかなくてはなりません。それにはいつも謙虚で、前向きの姿勢であることが大切です。(中略)私どもに与えられた使命は何であるかとかんがえると、また力が湧いてきます。皆さんも「行ずる」という、しっかりした肚を作っていただきたいと思います。」と若神様は話された。
お釈迦様が出家制度を創ったのは、厳格なカースト制度で縛られたインドにおいて、社会との軋轢、家族との軋轢から切り離し、純粋に共磨きとお祈りだけに明け暮れ、心を磨く機会を与えるためであった。心が磨かれた人は社会に下がって指導した。これが形骸化し、嘘偽りになってしまった。今回は、大神様は現職(職業)を持ち・家族を持ったまま行をするよう指導されている。そこで世俗社会との軋轢・神行しない家族との軋轢をどう消化していくかが、大きなポイントであろう。うじと肚を合さず、神と肚を合わせて、下がって導く。迎合して落ちてしまわないよう常に注意する。神行の肚を崩さない。そのためには日々のお祈りが欠かせない。
2.対自然:災害にあっても、火事に遭っても、感謝できるように心を磨く。幸運に合っても有頂天にならずに感謝する。病気・怪我にも感謝出来る人も稀にはいる。(あらゆる試練を感謝で受ける。)反省懺悔で、心行での病気の原因がわかり、感謝までいくと治ってしまう事があるようだ。感謝までいかずとも、心がくじけないように頑張るのが行。因縁がでたと諦め、心でその病気を乗り越える。これが行。心が下を向くと、どんどん落ちてしまう。常に上(大神様)を見ていれば落ちない。死なない人間はいないのだから、自分の死を恐れない。秋になると葉が枯れ落ちる。自分の人生と何の差もない。悲しむこともいらなければ、喜ぶこともいらない。手を尽くすだけ尽くせば、心を磨けるだけ磨けば、徳を積めるだけ積めば、後は「なさるがまま」。これ以外に人間にできることはない。
3.精進行:善いことを積極的にする。これも行という。心行のみでなく、行動としての行。神の国建設の手伝い、奉仕、伝道、磨きの会会場提供、などなど。他に一般的な利他行があるが、相手が善であればよいが、悪であると利他行にならないことがあり、盲目的であってはならず、それを見極める目が必要。