鏡の中の自分

四六時中鏡を見ている女性がいる。いつも見るのは自分ばかり。美しい自分を見て満足しているのか、気になる欠点が上手く隠せているのを確認して安心しているのか、我々他人には推測しかできない。自分を認めて欲しい。見て欲しい。見てもらうと優越感に浸る。
こういう馬鹿らしは、まだ単純なだけ始末が良い方かもしれない。
ちょっと何かに才能があると、自分で都合の良い架空の鏡を作り出し、いつもそれに自分を写して自分を確認し続ける。それが優越感という隠れた快感にまでなると、始末が悪い。
ちょっとした富があれば、自分で都合の良い架空の鏡を作り出し、いつもそれに自分を写して自分を確認し続ける。それが隠れた快感にまでなると、始末が悪い。
ちょっとした美貌があっても同じ。出身の家柄が良くても同じ。乗っている車、学歴、職業、務めている会社、地位、収入、子供の成績、競技での成績、表彰状、持っている骨董のコレクション、家の立派さ、着ている服、持っているバッグ、、、何でもかでも、鏡を作り出し自分をいつも写して、自分は優れていると確認したがる。想像の自分・自我は肥大化する一方である。反省できれば、自分も鏡夢中の女性と全く同質の馬鹿人間(ウジ虫)であるということに気づく。
この本性は自分がかわいい、優越したいというところから出ている。これが様々な生活の場面で他人を不愉快にさせ、気づかないうちに罪を重ね他人の恨みや怒りを受けてしまう。すると他人の生霊が来てどんどん行き詰まり苦しくなる。苦しみが増す程、自分の魂は下に沈み、神様から遠ざかる。ますます架空の鏡は大きくなり、それを覗く自分の快感が増す。この悪循環は自分由来の理性では気づくことも取り除くことも不可能である。悪癖の悪霊がつき、それが仲間を呼び寄せて悪霊の巣になっていくわけで、その悪霊が向上の邪魔をする。この悪霊を除くには法力のあるお祈りが必要であり、天照皇大神宮教でないと救われないという理由でもある。名妙法連結経のお祈りがあって初めて反省が可能になる。
なんと自分を認めてもらいたがる本性というのは根深いのだろう。その本性が自己心中に地獄を作り、地獄を家族など周りに広げる。ところが、本来その肝心の自分というものは、あやふやな存在で、自分で意識することで初めて創りだされた存在にすぎない。
ウジ虫は腐った肉や糞を食べている。自分の魂が不潔であると、不潔な物ばかりを大喜びで漁っている。魂の本質が売春婦であれば、いい鴨がいないかと、日々眺めている。鴨がくれば媚態で釣る。見る映画やテレビは不倫のドロドロばかり。読む雑誌・漫画はエログロ。日々毒水を飲み腐肉を漁る。まさに蛆。魂の本質が強欲であると、他人をみれば、利用できないかと考え、金を貰うことばかり考える。借りた物を返さない。いつも損得を計算し、自分が得することばかりを考えていて、相手が損することなど気にしていない。魂の本質が殺人者であると、誰かを苛めることに喜び、弱味を探り、恨みを根に持ち、酒に酔うなど機会がくると爆発する。残酷なゲームに熱中する。他人を見下し、いつも罵り、悪口ばかり言っている。などなど、、人に優越しようと、ウジ虫がウジ虫の上に登る。そしてボロッと落ちる。行為としては自分は道徳的と思っていても、魂の世界で、一皮剥くと、ウジ虫、更に進んでウジ虫乞食であることが、身にしみて分かる。「人間の皮を被ったウジ虫乞食」というご指摘どうりであることを自覚する。(結界師という漫画はよくできている。人皮スーツを研究開発して作る妖怪・藍緋がでてくる。)
ウジ虫の餌、好物を悪行と言いそれを好む性癖が悪癖。自分の悪癖を見つけ、それを少なくしていく努力を心の掃除といい、このウジ虫(自分を)退治しない限り、神の国に近づけない。この心の掃除を「行」という。具体的には①常に神教を基準に自己反省をし、自分の欠点・自我・癖に気づいた時には懺悔し、素直な人になるよう務める。②公の事、他人のことを先にし、私事を後にする。自分だけが良い子になろうとしない。自分のしたことを誇らない。人の悪口を言わない。縁の下の力持ちになる。自分中心の考え方をせず、他人を尊敬して、思いやり、尊重する。まとめて言えば利己を薄める努力をする。すると総てに感謝が湧くようになる。③一切の悪をなさず、あらゆる善に努める。④金・物・自分の所有物に執着しない。性を享楽の対象としない。道を踏み外さない。⑤真心を尽くせる人になる。他人に真心を尽くすと感謝されるようになり徳が積まれる。
古事記の天岩戸の話の意味を大神様が解説された。自分の心の岩戸が開かれると、神の光が差してきて、自分の心の闇に生息していた鬼が出て行く。すると嬉しくなって自然と体が動き出すという。無我の舞である。天照皇大神宮教のお祈りは岩戸を開く呪文のようだ。
ハツカネズミ(非力な自分)を瓶に入れ、上をガラス板で蓋をすると、ネズミは出られない。ガラス板が因果であり、お祈りの力で、(因果を切って)開けてもらえると、明るい世界に出れる。法力のないお祈り、宗教では救われない。