出家修行法は死滅の法

仏教の修業法に出家修行法と在家修業法があることを昨日のブログで書いた。しかし出家修行法は現在では完全に滅びた教えである。
理由:
出家修行法は家庭、財産、職業の完全放棄が前提であり、これは現代では実行不可能になっているためである。250戒のなかでも最重要な戒は4つあり、これを守らない者は僧でないと釈尊が定義された。(現代風に言えば、釈尊が違反者を僧の名簿から永久削除した。)
1.不マイ(セックスの禁止)
2.人・動物を殺す
3.身分詐称(仏でないのに仏であると言う、神通力がないのにあるという等々)
4.盗みをしない
この基準でみて日本の現今ほとんどの”僧”と称する人々は僧でないことが分かる。
江戸時代幕府は浄土宗以外の僧侶にこの4戒の厳守を求め、違反した者を厳しく罰した。このためこれらは良く守られており、真正の精神的指導者も数多くでた。これが明治初期に日本が世界にも例をみない道徳の高い国民であり、外国人を驚かせた事例が多くある原因である。日本の奇跡的発展はこの道徳性を基礎としていた。(例えば道徳のないインドではいまだに契約すら信用できないらしい)明治政府はこの方針を廃止した。
そこで平成時代これらを守る人は珍しくなった。(極稀だが、立派な人もいる。)

現代では世襲財産として寺を受け継ぎ、世襲職業として”僧”になる人がほとんどである。宗教団体にたいする優遇税制もあり、相続税も免除され、これほど美味しい職業はめったにない。”僧”の養成大学は総じて偏差値が低く、一般の人からの人気はない。そこでは一番肝心の戒律を教えない。
先生たるべき人が戒律を全く守っておらず、学べば自分が”僧”と称しているのが偽善であり、”僧”の外形をして世間を欺き、仏の名において集められた財を搾取して生活していることに気づいてしまう。要するに詐欺生活である。戒名料など遺族の虚栄心に付け込んだ典型的な詐欺である。現代の”僧”は戒律を学ばない、学ばせない。これらの戒律の一条ずつが個々どのような意味を持つか、従いそれらが僧の霊的生命にいかに必須かの学習さえできていない。霊的生命すら理解できていない。要するに出家修行はない。戒律に背を背けているから、他に道徳を説けず、説けば偽善になる。

街中で僧の格好をした人をめったに見ない。彼らもインチキをしていることを内心恥ずかしく思っている証拠である。葬儀等の商売のときの衣装であるぐらいにしか世間でも思っていない。要するに葬儀屋さんなのである。社会の精神指導者ではない。それを時々、昔からの慣習で、精神指導者として寓し、TV等で扱うから偽善と嘘が横行する。高田好胤など典型だ。彼は説法などもし有名であったが、週刊誌で買春をすっぱ抜かれ、法隆寺から追放された。(高田好胤の師の橋本凝胤は一時、慧海の弟子であったが突然破門されている)最近イギリスでも有名なよくTVで説教していた神父が死んで、家政婦というのが実は妻で、良く連れ歩いていたマネジャー(?)が子であり、その偽善ぶりであきれられた。こういうことが社会に嘘と詐欺を蔓延させる大きな原因なのだ。
僧とは本来お釈迦様の教えを実行して、(結果的に)このように立派な大人物、人格完成者になれたことを示し、世間に釈尊の教えを証しする社会の宝の存在なのである。法の体現者であるべきなのだ。
そのためには戒を守り、正しい禅定を修めることが必要だが、これを実行できている人は世界中どこにもいない。(河口慧海”正真仏教”P209)
現代人の到底実行不能な清浄出家を世間一般はいると盲信し、あやかりたいと願う。これに乗じて、立派な宗教家のふりをして儲けようと言う詐欺師が現れる。浄財が詐欺師の遊興費や贅沢に費やされてしまう。こういう浄財の不浄化から起こる害毒は、本人のみならず、関係者ならびに社会までも汚濁することになる。卑近な例で言えば、お菓子屋で菓子を買い、店の主人がそのお金で女遊びをしたとしても、別に問題はないだろう。しかし神様仏様にお祈りして純真な気持ちで寄付したお金を、寺や神社や宗教団体の主が、買春で使ってしまえば罪深い。世間に立派なことをいっている宗教家の偽善はそれだけ罪が深いのだ。
これを改めるには言行一致の実行可能な教法、在家修業法を修めるべきで、出家をすることは自他を欺く道であることを知るべきだ。