ノアの方舟 ーー人間の改良過程と仏教

ノアの箱舟 は創世記にでてくる有名な話だ。あらすじは
1.主は地上に人の悪が増大し、心がいつも悪に傾くのを見た。それで人を作ったことを悔やみ地の表から消し去ろうと決められた。
2.ノアは少しだけ見所のある人間であった。
3.地は堕落し、道をみだしていた。
4.ノアに神は告げられた{自分のために松で舟を作り、底をアスファルトで塗りなさい。3階構造にして天井には窓を作りなさい}
5.{各種の鳥と動物、地をはういきものをつがいで連れていきなさい}
6ノアがこのようにすると7日後の2月17日に大洪水が始まった。ノアは600歳であった。雨は40日降り続いた。
7.地上は水で覆われすべて死に絶えた。ただノアと船にいた生き物だけが生き残った。雨はやみ引き始めた。
8.箱舟は7月17日にアララテ山(アララト山)に引っかかり、10月1日、山々の頂が現れた。
9.40日の終わりノアは窓を開きカラスを放った。出たり入ったりしていた。
10.次に鳩を放ったが戻ってきたので足をつかんで捕らえた。
11.7日後鳩を放つと帰ってきてくちばしにオリーブの葉をくわえていた。
12.次に鳩を放ったが戻ってこなかった。
以下略
これを正しく読んで理解するにはスウェーデンボルグ”天界の秘儀”が欠かせない。詳細に解説されている。ここではほんのさわりだけ紹介し、それが仏教の在家修行法と関係していることに触れる。
1.は教会が末法時代にはいり末期状態であることをいっている。各個人は無神論とか、邪な間違った教えで溢れて、純正な教えは少なかった。
2.しかし人には”残り物”=如来蔵というものが用意されている。
これはその人の育った家庭環境が影響している。幼少時に親の愛情を受けると、他人に対する信頼感と慈愛の芽が残る。これが残り物の核心である。また親の影響などで、神様がいて有難いものだと漠然とではあるが信じるようになり、折に触れて学んだことから多少の宗教の事柄を知るようになった。しかしそれは表面的であり、自然からでることはできないレベルであった。
彼らがノアである。
3.成人になると、残り物は後ろに引き、凡人そのままの、煩悩そのままの生活を送るようになる。これは、それが悪いことと認識できず、目前の欲望実現が善いこととしか考えられないためである。これは空しく苦しい人生であり、原因はわからないまま苦しむことが多い。
4.親切心から他人を助ける善行をしばしば行うも、自分へのみかえりの利益を常に考えていた。アスファルトは油(善)であるが、汚れていて(自己への見返りを考えて汚れている)最低の油である。自然的な心は最下層の底で表現されていて、そこには多少の善があった事がしめされる。これが次の試練から救われる鍵になる。(舟が浮く)
3層の構造はチベットの仏教寺院が3階に作られていることと同じで、天的、霊的、自然的という霊界構造を表している。天井の窓は、神からの教えを受ける口であるが、この時点では閉じられていて、聞く能力がまだないことを示している。
5.今までに学んだ知識(鳥)とか愛情(生き物)は、その後に役立ちます。
6.600歳と6歳、60歳とは、すべて同じで、6=試練という意味である。10,100倍で完全という形容詞をつけている。つまり600歳は、完全な完全な試練です。という意味。仏が6年間苦行したのも同じ意味。40日も試練という意味。キリストが砂漠で40日断食したのもこの意味。
つまりノアに霊的試練がもたらされたという意味になる。
これは溜まった悪と間違った理解を一掃するための霊的外科手術が始まったという意味である。
7.試練は彼に大きな誤謬をぶつけることで行われる。この試練に勝った話はあまり表にでない。試練に敗れた例は有名になり多くしられている。例えば映画”ジョーズ”では主人公の妻は、目前に現れた青年に心引かれ、貞操を破り、子供と夫を裏切ってしまう。”マディソン郡の橋”も同じように試練に負ける話である。某有名女性も同窓会で昔の同級生にあい2人ともいい年なのに何を血迷ったか家庭を捨てて再婚したというようなのも典型的な試練に敗れた例である。大統領、ノーベル賞学者から現ホームレスまで各階層にこういう例はあふれている。
ここでもし踏みとどまれていれば試練に勝ったことになり、劇的に人生は霊的には豊かになったはずである。基本的に自己の願望と、他人(相手の家族とか自分の家族とか)への迷惑を秤にかけて、どちらを取るか迫られるのである。他人を取るととりあえず試練に勝ったことになり、それが舟が浮くことで表現される。負けると水底に沈むことで表される。
8.アララテ山とは一番辺境にある山(信仰)ということで、彼が少し信仰に入りだしたという意味である。試練の混乱を乗り切るため宗教に救いを求め、その成果が少し見え始めたという意味である。試練に自分が勝つたのではなく、自分に残っていた善が救ってくれたというべきだろう。
9.試練が終わり、窓を開く。神様を礼拝できるようになったという意味。カラスとは黒い(誤った)鳥(教義)ということで、彼は信仰の教えをまったく不完全にしか理解できず、時には誤って理解した。
10.白い鳥(正しい信仰の教義)に従い行動を始めたが、自己を捨てることはまだできなかった。鳥の足を自分がつかむことでこうなる。鳥は自分に帰ってきたことでも意味される。例えば善行をしても自分にこれで功徳が積めたと喜ぶようなものである。人無我には遠い。
11.教義の実践=善行に自己が少なくなり真の善が現れだした。オリーブは油(善)の多い植物(認識)で葉はその最初の一歩を表す。いよいよ本物になりかけてきたわけだ。
12.人無我、法無我を実現できるようになった。