正しい布施と間違った布施

布施とは寄付のことである。
聖書にも、宝は地上の蔵にしまうと、錆びたり、盗まれたり、ネズミにかじられたりするが、天の蔵にしまえば永久不滅である。という意味の話がある。
自分の財はこの世では諸行無常でいつかはなくなるし、死後は自分には役立たない。しかし、それを他人の役に立つように使えば、功徳が積つまれ、死後にも役立つ(天国に生まれる)という教えである。
仏教でも在家の向上法として布施という項目がある。これは財産に対する自分の執着心を薄くするための修行項目である。

一方詐欺師はこれを利用して儲けようとたくらんでいる。街頭募金で”地震救済”、”難民援助”、”アフリカ支援”、”難病援助”とかで募金がおこなわれているが、真面目なものもあるが、詐欺も多い。バイトを雇って大規模に募金し、極小額をしかるべき団体に寄付して、大半は利益とする犯罪者とか、問題教団とかもある。

布施は間違って行うと、毒蛇に牛乳を与えるのと同じく、自分の功徳でなく、罪にさえなる。
困窮しているから気の毒と援助すると、その金で包丁を買い、他で強盗をしたりすることもある。相手と状況を見て、良く判断してから、援助すべきかどうか決定すべきで、唯可哀想というのは間違っている。

スウェーデンボルグは富はその人の福分であるから、それを無理に他人に与え、自分は困窮化して世の悲惨を味わうべきでない。富のある、なしは天国にいくか、地獄にいくかとは無関係である。富を楽しみ、執着しなければ、その人が善人であれば天国にうまれる。ただ富に貪欲で、財を目的として生きるのは悪い。
援助する相手は善人であるべきだ。悪人に援助するのは悪である。
隣人とは善人のことをいう。

と書いている。
河口慧海は布施について
職業上で一生懸命仕事して、社会の役に立つように努力することが最大の経済的布施業である。これで布施業は大半、尽くされている。と菩薩道で書いている。
僧侶が現今は(釈尊の定義した)僧侶でなく、仏の名を利用して儲けているだけの場合が多い。純真な寄進が、堕落僧の贅沢に消費されることは、非常に大きな罪悪で社会の精神を悪化させる。
お金を他人に直接援助するのは旅行者でお金を盗まれたとか落としたとかいうような限られた場合以外は、独立心を損なうからよくないことが多いと書いている。
お寺への寄付は田舎のお寺の施設維持費援助ぐらいにし、住職が妻帯していない方に限定すべきだろう。