宗教の発展なのか退行なのか
文芸春秋2009年6月号に面白い記事がのっている。有名人34人が各々推薦する本をあげた記事で、森永卓郎は『民衆を愛した親鸞』(笠原一男)を取り上げた。森永卓郎の指摘が鋭い。「親鸞が開いた悟りは本当は極楽浄土は存在しない。このないもののために、難行苦行をするのはおかしい。民衆は現実の生活に苦しみ救済をもとめている。彼らを救うために、存在しない極楽をあるといい、念仏だけでいけると説いた。」人間は死んでしまえば完全におしまいだ。という記事である。(P304)
またドフトエフスキーも同じようなことをいったらしい。天上に美味しいパンがあり、そのために努力しろというが、目の前のパンこそが大切だというような趣旨である。
他人を助けるために寄付しろ、それが功徳を積むという教えだが、功徳は眼に見えず、あるかどうか不確実だ。確実なのは、寄付したとたん、財布からお金が減ったことだ。
釈尊ーー鳩摩羅什ーー天台ーー最澄ーー親鸞
この系統を仏教の発展形態と見る人もいる。反対に退行過程とみる人もいる。人数でいえば前者が圧倒的多数である。ただ後者の立場に聖人が多い。
明恵は彼に帰依していた鎌倉幕府に進言して、親鸞一派を弾圧させた。仏教に害をなす有毒な教えと見ていたわけだ。
江戸時代の慈雲尊者は「これをしも仏法というなら、仏法ほど悪い教えはない」と『十善法語』で書いている。
明治の河口慧海は「これは仏教ではない。ただ彼らが使用している用語が仏教用語であるだけだ」と『在家仏教』に書いている。
スウェーデンボルグは宗教分類で、宗教の末期的状態として、この種の教えを詳しく解説している。これらすべての事情を森永卓郎がはからずも指摘しているのが面白い。人間はそのままでは、仏を認識したり、教えを霊的に聞いたりできない。だから存在しないと信じる。死んだら万事休すと思っている。だったら教えは簡単なほどよい。
やりたい様にやりなさい。自由に欲望のままに生きてもかまいません。
死後が不安という人にはいいことを教えてあげましょう。仏は慈悲深いので
南無阿弥陀仏ととなえるだけで救ってくれるのですよ。他には何も必要ありません。
親鸞の悪人正機とはこのような教えらしい。
一方、難行苦行を開花させて、自己愛を克服し、自分の全人生を神と、その教えに捧げ、隣人愛の権化にまでなった人の到達した高みからの認識はまるで違う。彼らには仏は現実に存在し、天界は存在し、地獄も存在する。死後の世界は現実にあるのだし、人間が地獄に行く原因もよくわかっている。因果律という釈尊の教えがいかに正しいか十二分にわかった。彼らからすると、悪人正機など戯言に過ぎない。こんな教えを信じる人々は惑わされていて気の毒だ。そこで批判を公表せざるを得ないとなる。ちなみに念仏極楽往生を説いているお経『無量寿経』第18本願文は、康僧鎧の翻訳が誤訳であったため存在しているだけで、サンスクリットの無量寿経には存在しない内容である。AならばB。CならばD.という原文をAならばD.と訳したようだ。このためインド・ネパール・チベットには浄土宗はない。