空海と最澄

 この有名な2人が晩年仲たがいして、空海最澄を絶縁したと伝えられている。真相は勿論我々には不明であるが、宗教的には絶縁は納得できる点が多い。最澄の誤りがひどすぎるのである。空海のような聖人が絶縁しないほうがおかしいのだ。推測される理由。

 1.最澄が伝えた仏教は天台宗である。
 2.最澄が重視した戒律は釈尊の戒律でなく、鳩摩羅什が作った『梵網経』の「十重四十八軽戒」(通称、大乗菩薩戒)であった。比叡山に「十重四十八軽戒」の戒壇を建てた。
 3.最澄末法灯明記を書いた。

 これらがなぜ非難されるかの理由を理解するには、スウェーデンボルグ『天界の秘儀』と河口慧海の『在家仏教』を読む必要がある。スウェーデンボルグは宗教の進展過程と退行過程を詳しく解説し、それが旧約聖書新約聖書のいたるところに繰り返し(表現を変えて)書かれていることを明らかにした。これは微妙なテーマで結論だけ荒く纏めることは良くないだろうが、さわりだけでも簡単に紹介してみる。

 A.正法時代。愛は善である。保持する教えは真理である。
 B.像法時代。愛は善でない。保持する教えは真理である。
 C.末法時代。愛は悪である。保持する教えは誤謬である。

 宗派の中心的人々の愛が善であるとは、(彼らが、自分の名誉、地位、財産を全く考慮しないで、自分と他人の霊的救済を第一義に考え行動している)ことである。自己愛を完全に克服した人を阿羅漢(降敵者)といい、また天界では無垢な小児と現れることから子羊ともいう。
 愛が悪であるとは、自己愛(名誉欲、権力欲、他を支配しようとする欲、他に優越しようとする欲、他から尊敬され拝まれようとする欲等)と所有欲(財産欲、組織欲、等)が中心にあり、神に仕えることと、他人に仕えることが従になった状態をいう。信者獲得をノルマにし、地区長ポストを競わせ、集金した寄付額を競わせたり,指導者が多数の愛人に囲まれていたりするのが典型。

 保持する教えは真理であるとは、(彼らの守っている言葉は釈尊の言葉であったり、キリストの言葉であったりする)ことである。これには深い。浅いがあり自然的真理(道徳)。霊的真理(俗締)。神的真理(真締)がある。正法時代はこのすべてを保持しているが、像法時代は霊的真理・自然的真理だけになり、末法時代には霊的誤謬、道徳を保持する。
 釈尊時代は当然正法時代である。仏教は仁慈の教えであり、実行者から構成されていた。
 その後、自己愛から信仰の秘儀を探ろうとする人々が現れる。宗教知識により名声を獲得し、高位に上り、よい生活を得ようという動機から修業し、学問として経典を研究する人が宗派指導者となっていく。これが蛇(自己愛由来の理知)からの誘惑で、リンゴ(信仰の秘儀)を食べ、エデン(正法時代)から追放される話である。
 兄のカインは弟アベルを殺す。兄と弟とは信仰で真理が先か、仁慈が先かの論争が昔からあり、それが兄の権利として比喩として記されている。カインは仁慈を無くして真理のみを伝えた宗教であり、像法時代に相当する。カインを殺してはいけないのは、彼らだけが真理を伝えていて、そのゆりかごから、また偉人が現れ、宗教を再興する(正法時代)可能性があるためである。
 この像法時代に仁慈の教えにいたグループが彼らを小乗とそしり、仏教の基本は仁慈である説き、これを大乗と呼んだ。多くの人を彼岸に渡す仁慈の教義を宣言したのである。仁慈を欠いた宗派に対する警戒を説いているのがキリスト教イスラム教の偶像崇拝禁止の教えである。

 仏の遺言に、「滅後700年悪魔が現れ、大いに仏教を破壊する。悪魔は仏の外形、比丘の外形を取り内心は煩悩の身のままで人々を惑わす。」という意味のものがある。鳩摩羅什の出現がまさにこれに符合している。彼は女を侍らせつつ経典翻訳をしていたような人物であった。維摩経ではかなり酷い改作をしている。鳩摩羅什が作った『梵網経』の「十重四十八軽戒」(通称、大乗菩薩戒)は偽戒律であり、デーバダッタの分派の戒律と同種のものである。法華経の比喩である焼身を推奨し、このため昔の中国では有為の青年僧が多数自殺に追い込まれている。

 正しい戒律こそが宗教の(人間の)基礎でありこれなくしては、人間の改良はありえない。この基礎を壊した鳩摩羅什の罪は深い。鳩摩羅什の影響をとりわけ強く受けたのが天台智者である。彼は経典分類(5時判教)を発明したが、これは釈尊の歴史的事実を知らず、サンスクリットに対する完全な無知と羅什訳法華経の誤訳などに由来する妄想の産物であった。旧約聖書に「神の子らは人の娘が美しいのを見て、好きなものを選んで妻とした。」と書かれている意味は「仁慈の心が衰えるに従い、教義も自分達の欲望に都合のよいものを選んで採用していく」ことであるとスウェーデンボルグは書いている。
 戒律を無くし、努力をなくし、何もしないで称名念仏だけで天国にいけるという親鸞の教義まででてきた。これが末法時代である。お寺さんはベンツを持って、戒名料で丸儲け、という時代で、こんな仏教など信じるほうが馬鹿だという時代である。こんな坊主でも世間は尊重しなさいと説いているのが末法灯明記である。
 しかしこんなのだけが仏教ではない。自分を反省して、5戒を守り、日々努力向上することを教える仏教もある。これが河口慧海の説く在家仏教(ウパーサカ、ウパーシカ仏教)である。