お経の意味ーースウェーデンボルグ

 お経(聖書)の一語、一句には想像も着かないほど深いものがあるらしい。河口慧海は、お経を築庭法にたとえ、お経に使われる単語は、庭園に植えられる樹木草花岩玉砂に相当する。これの選定ををおろそかにすると、庭としての美しさがでてこないのと同じで、お経の原典では用語は非常に厳選されて使われていると書いている。(国訳維摩経 P33)このため河口慧海の翻訳は、原典に忠実に翻訳することを非常に重視した。このため、例えば、維摩とは無垢のことであることがわかる。無垢とは天界の最高の天使のことで、キリストが子羊と呼んだ者のことである。これだけで、維摩経とは、最高度の天使の悟りの境地を説いたお経ということがわかる。
また法華経は”妙法白蓮華と名ずくる大乗経”が正確な経名であることがわかる。このような点からも河口慧海によって初めて正確な”お経”が日本語で読めるようになったということは、驚くべきことであろう。過去千年、日本には、正確な”お経”を読んだ人がほとんどいなかったわけだから。

 何故このようなことにこだわるかは、スウェーデンボルグの著作を読めば十二分にわかる。例えば
『マルコによる福音書』3.16.17主はシモンにペテロの名を与えられ、ヤコブヨハネにはボアネルゲの名を与えられた。『黙示録講解』・P11 ボアネルゲは雷の息子を意味している。雷の息子は愛(意思)から天界の真理を受け入れる、最高度の天的天使のことである。仏教でも雷鼓如来、雷雲声のようなような表現がお経にでてくるが、これでこの如来が天的天使であることがわかる。

 『ヨハネによる福音書』21.15ー22を『黙示録講解』・P12を参考に読むと深い意味がわかる。
 ペテロは教会にいて信仰にいる人(俗諦の人)を意味し、ヨハネは仁慈の善にいる人(聖諦のひと)を意味する。原文を読めば、お経とはなにかが良くわかるだろう。またペテロが鶏が三度啼く前に、3度イエス・キリストを知らないといったことの意味も分かる。教会の末期(末法時代)、教会は、キリスト(仏陀)の精神と教えを完全に捨ててしまう。今ニュースになっている”僧”とかお寺の惨状をみれば納得できよう。

 『黙示録講解』・P21 霊界での耳の領域にいる天使の特徴が書かれている。ミラレッパは手を耳にあてた姿であり、彼がこの種の天使であることがわかる。

 『黙示録講解』・P23 イエス・キリストの言葉を守るものだけが弟子である。仏の制定された戒律をきっちり実行するものだけが弟子である。

 マンダラの図柄の意味も書かれている。『黙示録講解』・P68には、仕切りの壁(線)はその教会(人)を維持ずる為の真理(戒律など)を意味し、門は、その教会に導き入れる真理(教え)を意味し、下絵に描かれる色は、その教会の基礎になっている知識を示している。法華経比喩章にシャーリプトラに対する成仏の予言(授記)に無塵という世界で仏となり、その地は瑠璃をもって覆われている。黄金の糸で各所は荘厳されており、花と実をもって荘厳され見るに麗しい。100の宝の樹で飾られている。知識は瑠璃のように善がはいり、透明であり、善で満ちている。仁慈の実行が花と実をつけており、洞察と認識は宝の樹のようである。

 『黙示録』1・12 そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。この解説が『黙示録講解』・P92 である。天界からの流入はまず意思(愛)に対し行われる。脳でいえば後頭部の小脳に対してであり、これが後ろから声が聞こえたと書かれている意味である。小脳に入った流入は前に送られ、大脳の前頭葉に入り、続いて視覚野でイメージ化される。これが”声をみようと”という聖書の表現の意味するところである。 羽生の頭脳のNHKでの特集で、羽生がすばやく局面を読む時、頭脳の深い部分、間脳か小脳近くが異常に活動している所があったが、なにかつうじるものを感じた。

 結論:聖書を小説とみたり、歴史書とみたりするのは、全く誤っている。 お経を同じ態度で扱った翻訳書は全く誤っている。