共産主義批判 

”生死自在”(1904年)で河口慧海共産主義について言及している。その記述は先見性に満ちており現在読めば驚かざるを得ないだろう。
{その後起きた歴史}
1917年にロシア革命が起き、それまでの支配層、富裕層、知識階級への大量殺害が起きた。カンボジアでは極左ポルポト派により同じことが繰り返された。中国でも毛沢東による革命と文革で同じことが繰り返された。しかしロシアもカンボジアも中国も経済が疲弊して革命は失敗し、原理的共産主義を放棄して、市場経済に移行することで国民生活を向上させている。

{”生死自在”からの抜粋と要約}
すべての物事には差別(区別させるもの)と平等が本来備わっている。差別のみを見たり、平等のみを見るのは誤りだ。
1.差別のみを見る例。
 貴族とか金持ちが、自分はいつまでも富貴であり、センダラ(インド最下級カースト)はいつまでも貧賎であると考えている。また平民はいつまでも平民で、華族はいつまでも華族と考える。
これらは誤った見方である。貴族でもやり方が悪いと没落して、貧賎になることがあるし、貧賎な者でも成功すると富貴になれる。また平民でも国に功があれば華族になれる。これは平等の性質があるからである。
2.平等のみを見る例。
人間の中には富貴貧賎が何故生じたのかその原因を考えず、富貴貧賎の差別は(因果律からして)必然に起こる現象であることを知らずに、唯一途に平等を尊んで、同じ人間だから同じ生活をすべきだと主張する人がいる。大臣も運転手も同一賃金にして、すべての土地は私有を廃し(国有化)、利益を共有すべきだと言う。これが社会共産主義で平等のみに偏した意見である。
しかしこの偏見は実現不可能である。現今の文明は平等に向かわず差別がますます甚だしくなる。貧富の差はますますひどくなる。これは生存競争の結果、勝者と敗者がはっきりして、努力するものは益々上に行き、怠慢な者は益々落ちて行くためである。因果の理法は善因の持ち主を益々上に上げ、悪因の持ち主を益々下に下げる。この貧富の差が拡大することで、社会に弊害が起こり、貧民が大変苦しむようになった。そして有志家は殊勝にも健気にも社会主義を起こし私有財産を廃して共有財産にしようと考えた。
そこで仮にその主義に従い平等にする為に法律を作り無理やり実施したとしても、やはり成功しない。無理やり強権により一旦平等にしても、必ず懸隔が直ぐに生じてくる。なぜかというに、ある者は怠ける、ある者は努力するという事実が必ず起こる。すると彼らの間に懸隔が生じなければならない。もし世間の人間がすべて菩薩とか仏で凡夫が一人もいない理想社会であるならその理想は実現されよう。しかし現在の(凡夫ばかりである)人間社会に法律で強制して財産を平等化することは空想であって現実化できない。社会主義者はこの実現の希望を持って、それに相応した理屈を立てているが、実現は不可能である。
その理由は人間はさまざまであるためである。人それぞれに、文明程度(教育程度)も違うし、種々異なる背景・原因(才能・運など)を持っている。原因結果相応の原理が相続するため、(神の摂理として)多くの異なった原因を持つ人々が同一の幸福の境界に住むことは出来ない。有力な共産主義政治家が権力を握り、圧制をひいて無理に社会主義を実行して財産を平均化しようとすると、フランス革命のように、生命と財産が多く失われる反面、利益は少ないという結果になるだろう。
これが平等のみに偏した害である。誰でも財産を平等に持ち同等の幸福を受けることを好まない者はあるまい。大抵の人は喜ぶだろうが、現今の実際では道理上、差別律(神の摂理)がこういうことを許さない。
2020年youtubeに非常に良い根本的な共産主義批判が投稿された。
https://www.youtube.com/watch?v=-m-7SExUAp0