契約の石版

モーゼの十戒で有名だが、神が書かれた石板には両面に文字が書かれていたそうだ。
A面には人間が守るべき戒律(契約条項)
B面には神が守るポリシー(契約条項)
が書かれていたという説がある。(スウェーデンボルグ
人間がA面の条項(10戒)を守るなら、神はB面の条項に従って処理をする、という契約書だった。B面の条項とは”神の摂理”という意味だ。

スウェーデンボルグは”神の摂理”という書を書いている。
その大要は
1.神は人に無限の慈悲(愛)をそそがれる。
2.神は人をその業に応じて裁かざるを得ない。
3.神は常に人を救おうとするが、人は自分の自己愛と所有欲から悪(地獄)に突入しようとする。
4.悪は地獄を作り、善は天界を作る。地獄と天界からの流入を常に受け、その均衡により人の自由が保障されている。
5.悪が許されているのは、それにより人が改良される手段になるためである。
6.人が作られている目的は(死後の霊を)天界に集め(引き上げ)天界をより完全にするためである。

すごいことが沢山書いてある。

ここで注目するのは1と2。

無条件の救済などありえない。その人の生活(行為、言葉)が善か、悪かに神の救済がかかっている。
善とは戒を守った生活であり、悪とは戒に反した生活である。
南無阿弥陀仏と何回唱えても、その生活が悪ならば救済は不可能であり、生活が悪であればどれだけ教会に寄付しても救済はない。これは河口慧海の説くところで、スウェデンボルグの説くところでもある。
逆に生活が善ならばたとえキリストとか釈迦を知らなくても救済される。(=死後は天国)
信のみを信仰と考え、行を信仰とは無縁とする現代の傾向は、常識ある一般人からは詭弁としか映らない。赤信号を無視して歩いていたり(酒に溺れる)、高速道路に侵入して横切る(邪淫する)人は、どんな呪文をとなえていても、どんな旗をかかげていても、ひき殺されても文句はいえまい。

無限の慈悲は平等に通じる。
業に応じるのは因果に通じる。これにより個々に差異が生じ、善悪の区別がついて良くわかるようになる。これを差別という。

すべての事象には平等と差別が内包されている。コップでもパソコンでも人でも構成する物質は原子レベルで考えると同じ(平等)である。蚊でも鮭でも人でも細胞レベル、タンパクレベル、DNAレベルで考えると同じ(平等)である。勿論個々の蚊と個々の人は違うから区別がつく(差別あり)

続く