河口慧海を知る−5

チベット旅行記

22.熱帯マラリヤに罹る

ダース邸に着いた翌朝に大熱病がおこる。チスター川流域を(雨季6−9月)旅行すると熱帯マラリヤの危険がありチベット人はいききしない。このことは十分知っていたが、緊急脱出のため6月に通り罹患してしまった。痺れだして足先から手の先の感覚を失い、麻痺がだんだん心臓の方まで侵入。観念に入って病の基礎からなるべく遠ざかるように心を用いて乗り切った。ダース博士は医師をよんでくれて懸命の介護をしてくれた。3日たって感覚が戻り、8日で手足が多少動き、1月間寝たきり。その後ようやく回復したが、すっかりやせた。
 
サラット・チャンドラ・ダース博士はイギリスのスパイとして1881年シカツェ、1882年(河口慧海17歳)にラサに潜入して帰国。そのことが露見して大疑獄事件となり大勢が死刑になり、泊めた家は財産没収になった。高徳の僧センチェン・ドルジェチャンも仏教を教えたため1887年(河口慧海22歳)死刑になった。河口慧海は最初インドについてから、ダース博士についてチベット語を学び、いろいろと世話になった。ダース博士は自分のために大勢が殺されたためその罪滅ぼしとして河口慧海に大変つくした。河口慧海は自分は疑獄事件だけは引き起こすまいと深く決心してチベットに入っている。

これほどひどい病気であったから、ダース邸に到着以前とか、出発後に発病していれば生きて帰れなかったろう。
人の霊的再生は一度に完成するものでなく、徐々に段階を踏んで行われる。(スウェーデンボルグ
これも試練と再生の一段階なのだろう。

23.チベットで疑獄事件が起こる。

10月になりチベット商人がダージリンにでてくるようになり、疑獄事件の噂を聞くようになった。自分ではなく自分に尽くしてくれた人々に降りかかった難儀をなんとか救いたいと、ネパール国王に嘆願書を出そうと決心した。(疑獄事件では数名が入獄。死刑はでなかった。政府高官多数が病気治療をしてもらったり、法王みずから秘密法を教えたりしていたのも理由のひとつだろう。書かれていないが河口慧海が懸命にお祈りをあげていた筈で、これも大きい理由と私は思う。日本帰国後も続けていたはずで、ついにイギリスのチベット出兵まで起こり最終的に全員が開放された。)
手を尽くしネパール入国をし、国王面会にこぎつけ、ついに嘆願書を(ネパール国王経由で)法王に出すことができた。以前のネパール密入国に関してネパール国王から関係者への処罰をしない確約も得た。

試練のもっとも激しいものは自分の一番愛するものへの攻撃で起こる。(スウェーデンボルグ
この疑獄事件は河口慧海への最大の試練であった。
自分の身の危険(死)は、天使にとってはたいした試練ではない。
隣人愛にたいする攻撃が最大の試練になっている。
これは試練と再生のほぼ最終段階なのだろう。つまり河口慧海先生はここに(ほぼ)成仏されたのではないだろうか。

24. 竜樹(ナーガ・ルージュ)の禅定窟に行く
ネパールで多くのお経を収集できた。このお礼として日本にある漢訳一切蔵経をネパールにあげる約束をした。
このため日本帰国後しばらくして再度インドにわたり、1年後にネパールに届けている。