第2回チベット旅行記(河口慧海)

圧巻はヒマラヤの大暴風雪を仏に祈って切り抜けた所です。(P206-222)

河口慧海は48歳で在インド。チベットのパンチェン・ラーマと日本の一切蔵経とチベット一切蔵経の交換の約束ができ、日本への帰国予定を変更して2回めのチベット行きとなる。イギリスが当時インドを支配しておりチベットへの外国人入りを実質禁止する境界法を作っていた。このため間道を通らざるえながった。今回は単独行ではなく、案内人(チベット人従者プンツォ)と雇った3人の荷物運びと共であった。別行のチベット人仏教弟子チンレー・サンボは日本から送られた(取り寄せた)一切蔵経を運んだ。12月末の真冬のヒマラヤ越えである。
シッキム経由の道をとった。虎の出没する原生林を通ったり、岩窟に寝ていて大きな熊(ヒグマ)に近づかれたりしている。熊が来たとき河口慧海は夢の中で空海から法を聞いていたようである。プンツォが熊に気づき火を炊き追い払った。

標高5000mのメトラ坂(人食い坂の意味の難所。前年冬にも5日続いた大暴風雪のため商人、巡礼家族など14,5名がここで凍死した)にかかった。
河口慧海は午後4時、道の上4mに大岩を観て(勘が働き)上って調べると、4方が岩に囲まれた2mX3mの平地になっており、大岩がせりだして屋根がわりになった”天然テント”であった。そこで従者の反対をおしてここに泊まることにした。(従者は恐怖心から早くこの地域から離れたかったのだろう。)
薪を集め水を汲み食事し炭火をたいて寝た。

午前2時前従者が騒いで起こす。安心して眠らせるが、その後もだんだん風雪が酷くなってきた。
プンツォらは”大暴風雪のきざしがある。祈祷してこの大難を払ってほしい。”と熱心に頼む。
彼らを安心させるため祈祷を始めると彼らはすっかり安心して熟睡した。
真観仏三昧に入り釈迦牟尼如来を観ずると(いつものように)仏が現れた。祈ったが感応がなかった。
隣を視ると(昼間の労働に疲れて)3人は熟睡している。死の危険がかくも近いのに眠っている。
これは世間の凡人と同じで、いつ寿命が尽きるかも知れないのに世の快楽を追及するばかりで解脱の道を求めない。(霊的に眠っている)浅ましいと感じ三昧が破れると、暴雪風が激しく顔を打った。
再び真観仏三昧に入り一心に念仏するも暴雪風はますます猛烈になるばかりであった。声もかすれて出なくなった。
ここに死を自覚して、自分の帰国を待つ老母に思いいたり涙がでた。これまで何度も死地に陥ったが涙を流したことはなかった。自分の修業地は下がってしまったのだろうか。自分はまったくの凡夫であったとまた涙、涙で慙愧に耐えなかった。
われは全くの凡夫であるが、正法のために働くことを許したまえ。
また従者らの命を助けたまえ。
と黙然と祈っていると突然の声がした。
雪がやんで星が見え出した。われらは死をまぬがれた。まことにありがたいことだ。
というプンツォの喜びの声であった。

注目点1.河口慧海には常に仏が現前していた。太陽の100万倍も明るいと(他の本で)書いていたが、これはスウェーデンボルグのいう最高天使(天的天使)の大きな特徴である。

注目点2.河口慧海にかすかに残っていたもの(自己性)が、この試練により取り去られた。
磨いた鏡の一部に息をはきかけた曇りのようなものがあったのがとられた。

注目点3 天的天使の祈りは自然をも支配する。

空海も暴風を鎮めて船旅をのりきった。

玄奘は海賊団に拉致され、島で生贄として台上で首を切られようとした。玄奘はこれまでと思いしばらくの猶予を請い、天上に弥勒菩薩を念じ”来世はヨウガ師地論の講義をうけて悟りを開き、人々を教化したい”と祈った。すると突然暴風が吹き荒れ海賊の船が皆沈没した。驚いた海賊は法師を礼拝して仏教信者になった。

(釈迦如来とかキリストは神様であり、天使とは次元がちがい、いつでも自然はしたがった。)