河口慧海を知る−3

チベット旅行記

13. ガンデン・チーリンボチェに師事する。彼は約20年の仏教学習の後約30年の秘密部の修業を行い、神通力を持ったチベット最高の僧であった。会うなり素性を見抜いた節があったが、仏教信実の修業者であることも見抜いたのでそのまま弟子にしてくれたらしい。彼ら2人は仏教界の人材欠乏を共に嘆きあったらしい。危険が迫り、チベット脱出の折、チーリンボチェに問う。
慧海 ”巡礼にでるつもりです”
チーリンボチェ 笑いながら
”巡礼にでかけると今まで苦しんでおった病人がかえってよくなるとでておる。その病人というのは本当の病人ではあるまい”
チベットで外国人に教えたり匿ったりすると(多数が)死刑になった前例があり婉曲なやりとりではあるが、チーリンボチェはたしかに知って脱出をすすめた。それだけでなくそれ以後のチベット情勢も当てている。
 当時の法王(13代)は真の仏教者というより辣腕政治家であった。辣腕政治家でないと暗殺をまぬかれなかった。(法王は占いで決められ、英才教育される。子供の時、法王代理とその任命大臣が権力を持つが、法王が成人すると権力移行がおこる。前権力者が成人前の法王暗殺をたびたび行ってきた。8代より12代までの法王は18歳とか22歳に毒殺されていた。)
 河口慧海の脱出後疑獄事件となり、ルンバ、チョエサンらが入獄させられた。河口慧海がネパール国王より嘆願書をだしてチョエサンが牢を出れた。その後イギリスがロシアとチベットの関係を憂慮して出兵。法王はロシアに向かい国境で清(中国)にとらえられる。代理法王がたてられ、ガンデン・チーリンボチェが就任。総理大臣に弟のチャンバ・チョエサンがつき、英軍と講和を結び、全疑獄者(慧海関連)を無罪として釈放する。
 たしかに 病人はかえってよくなった。
慧海が11年後に再度チベットに来たとき、チョエサンと合い旧交を温めた。チーリンボチェはなくなっていた。
 ロシアとチベットの関係では法王がロシア皇帝ニコライ2世男児が生まれるように祈祷し、その効果があって生まれたのがアレクセイ皇太子(血友病)。この病気治療で皇室に入り込んだのがラスプーチンである。

14. 河口慧海がチョエサンにこれまでの秘密を打ち明けようとした日、5月22日法王がラサに帰ってきた。その行列の上にだけ激しい雨と霰が降りずぶぬれになっていたが、釈迦堂に入るとピタリとやんだ。
非常に不思議な雨の降り方であった。
真正の聖僧である河口慧海をこれからとがめる決定をするような法王に対し天が雨で打った。

15. チャンバ・チョエサンと(妻の)尼僧ニンジェ・イセーは河口慧海に対し
自分達が死刑になっても貴方はチベット脱出をして仏教を成就させるべきと2人とも説いた。
真実供養とはこのことを言うのであろう。

16.河口慧海の布施行
 ・乞食を良く行った。食料が十分あるときでも行った。
  福田乞食というものである。徳の高い聖僧にたいし布施をする功徳は非常に大きい。その利益を人々に与えるために乞食を勤めて行った。
  有名なのはマハー・カーシャバ(仏の後継者に指名された釈迦の弟子)である。
  ライ病患者は当時隔離された地域で極貧生活を送っていた。彼らに布施の功徳を与えようと(感染も恐れず)ライ病の村で乞食行を行った。この後、釈迦如来はマハー・カーシャバを同座させて称賛した。
日本では(たしか)忍性も行ったそうである。
 ・機会あるごとに仏教をわかりやすく説いた。
  法を施した。高山龍三氏によるとツァーラン村で河口慧海に恋した女性は法を聞いて発心し、尼になって生涯を貫いたそうです。
 ・信者がお礼をしたいと言う時、たびたび禁煙、禁酒、不殺生の誓いをさせてそれをお礼とした。
  この信者が仏の5戒のひとつでも守り、この人生と未来の生での幸福を増大させようとした。
 ・自分の持つ食料、お金、薬、医療術は時に応じ、相手に応じ、惜しみなくあげた。
  布施の最高は4無の布施で
  布施する自分がない(無執着)
  布施される相手がない(無執着)
  布施する物がない(無執着)
  布施した記憶がない(無執着)
 ・自分にかかわるすべての人に(霊的)恩恵を与えようとした。

 このような人物の徳義を隠すようなことをした人には仏罰がくだされたことがある。
 幸徳秋水河口慧海が帰国してチベット旅行記になる話を時事通信の記者に口述していたとき、”万朝報”に”あれは詐欺師だ。チベットには行っていない。新橋に芸者をかこっている”と書いた。他の記者が問い詰めると”自分の師匠の悪口を言ったから復讐した。”(河口正”河口慧海”)
彼がその後別の事件で不敬罪で死刑になったことは良く知られている。

法華経にも、聖僧の徳義を隠すことの罪の大きさが警告されている。
眼を失った人の事例もしっている。