鈴木大拙とスウェーデンボルグ

鈴木大拙は戦後、求められて、昭和天皇に仏教を進講し、文化勲章受章者でもある。戦後の仏教界では日本の第一人者といってもよい人物である。明治時代、東大生であった彼は当時の仏教界の星ともいうべき釈雲照の甥である釈興然についてパーリ語を学んでいた。釈興然はセイロンで当地の仏教を研究して帰国していた。釈雲照は戒律を堅く守っていたことで有名であり目白僧苑という修業所もつくっていた。河口慧海は29歳の時、目白僧苑に入り、釈興然についてパーリ語を学んでいた。鈴木大拙の先輩にあたる。釈興然は日本の仏教界の指導者養成を考えて、三菱財閥の支援も取り付け、欧米への留学生派遣を計画していた。河口慧海に最初留学生の話があったが、彼はこれを断わった。理由は欧米にはたしかに優れた仏教研究が当時出てきていたが、お経の原典に基づく研究をするには、チベットに入って研究する必要があると確信していたためである。断わったため釈興然からは追い出されたようだ。次に候補になったのが鈴木大拙らしい。彼はこの欧米路線にのり留学し、国際的な大学者となった。
河口慧海チベット路線を進み玄奘三蔵と同じような大修業を実らせて仏になった。 私見では仏教について書かれた大拙の論文は私が読んだ2,3のものでは、大変優れてはいて、めったに出会えない程である。しかし河口慧海の著作はさらに優れている。河口慧海の著作に匹敵するものは、最近のものでは、慈雲尊者の著作ぐらいだろう。

 『鈴木大拙全集』の23,24,25巻にスエデンボルグ(スウェーデンボルグ)関係の翻訳と研究が入れられている。

 『鈴木大拙全集23巻 天界と地獄』
 『鈴木大拙全集24巻 スエデンボルグ、新エルサレムとその教説、神慮論 』 神慮論は柳瀬芳意訳では神の摂理になっている。
 『鈴木大拙全集25巻 神智と神愛』

 スエデンボルグ紹介は大変優れていて、鈴木大拙はスエデンボルグの墓まで行って研究している。スエデンボルグ紹介の書き出し部分を簡単に要約すと、スエデンボルグに注目する3つの理由が書かれている。
 1.スエデンボルグは率直で、誇張もなく、言うところは常識で考えても真理を説いている。しかも彼は天界と地獄を遍歴して、死後の霊界を実地に見たといい、主イエス・キリストから直接の教えを受けたと言い詳細な記録を残した。これは研究すべき大なる価値があるだろう。
 2.禅の境地で感じるものは、なにかスエデンボルグの説く(霊界からの流入)に似たものがある。これが注目すべき第2の理由である。
 3.スエデンボルグの教説は大いに仏教に似ている。これは各種に広く渉る。これが注目すべき第3の理由である。

 又有名な哲学者カントが1758年にシャルロット・クノブロッホに書いた手紙を大拙は見つけて紹介している。
 スエデンボルグの神通力に疑う余地のないことがおきた。1756年9月末、土曜午後4時にスエデンボルグは英国からゴッチンブルグに到着した。その時ウィイリアム・カステルは彼を家に招待していた。他に十数名の客がいた。6時ごろスエデンボルグは外に出て蒼白の顔面で戻ってきた。
 今ストックホルムで大火災が起こっている。また外にでて、今知人の誰某の家が焼けた、又自分の家の近くまで類焼している。と告げた。8時頃、火災は消火された。自家より3軒目の所で止まった。と告げた。ゴッチンブルグはストックホルムから480km離れていた。スエデンボルグの火事の報告はゴッチンブルグで有名になり、翌日知事が直接スエデンボルグに被災状況を尋ねた。ゴッチンブルグ市民は親戚・知人が多くストックホルムにいたためである。火事がどこから起こり、どこまで広がり、消えたかを詳細に説明した。この話はゴッチンブルグにすぐに広まった。月曜日の夕方、ストックホルムからの手紙が着き、火災発生のことが書かれていた。火曜の朝、王室からの使者が知事のもとに着き、火災のことを詳しく話したが、スエデンボルグの神通で見た話と全く一致していた。
 (注)2012年私は天照皇大神宮教の「天声」の過去50年分を調べる機会に恵まれた。そこでは神通記録が日常的に何百、何千もの人々で広範囲に行われたことがわかった。この透視程度は平凡ですらある。
 (注)矢作直樹『人は死なない』にスウェーデンボルグの詳しい情報が書かれていて、著者の深い研究と造詣が感じられた。矢作直樹さんは最近まで長年にわたり東大病院の医師(東大教授)で、日夜救急医療に尽くされてきた立派な人で「人間には魂があり、肉体が死亡しても、魂は死なない。霊界がある」ということを世間に教えるために、多くの本を書き、講演したり、Youtubeでも発信している。