高橋是清随想録 昭和2年の金融恐慌を懐う(2)

日本銀行の恐慌対策

日本銀行はこの恐慌状態に応ずるため21日も非常貸出を続け、この日一日の貸出高は6億200万円に上り、貸出総額は16億6400万円、兌換券発行総額は23億2千万円で、前日に比して6億3900万円を増加した。

元来、日本銀行の貸出高は平常2億5千万円前後であって、一番多い時でも4億78千万円を超えない。少ない時は1億23千万円の所を上下していたのである。それが21日にはただ一日の間に6億円を突破し、総額16億6千万円、即ち平常の7倍以上に激増したのである。また兌換券の発行も平常は10億円内外であったが、21日には一日で発行した分だけでも6億3千万円で、総額は一躍して23億1千万円の巨額に達したのだ。実に空前の発行高である。

かように急激に増加したものだから、日本銀行では兌換券が不足となり、金庫の中に仕舞い込んであった破損札まで市中に出したがそれでも尚足らぬので、俄に5円10円札と200円札とを急造することになった。右の数字並びに事実が示す如く、昭和2年4月21日の財界は、前古未曾有の混乱状態に陥らんとしていたのである。

間髪入れずモラトリアムの断行

21日には午前10時から夜に入るまで、ぶっ通し閣議が続けられたが、午前11時頃だったと思う。私は各方面から集まる情報に基づいて、2つの緊急処置を取ることを決意し、午後の閣議にこれを諮って、各閣僚の同意を得た。それは、

(1)緊急勅令を以て21日間の支払猶予令、即ちモラトリアムを全国に布くこと。

(2)臨時議会を召集して、台湾金融機関の救済及び財界安定に関する法案に対し協賛を求むること

この2つであった。

ところが、モラトリアムの緊急勅令発布の手続きを踏むには、如何に急いでも22日一杯はかかる。発令は23日と見なければならぬ。そこでこの2日間応急処置を講じなければ危険だと考え、閣議決定と同時に私は三井の池田、三菱の串田両君を招き、モラトリアム実施の準備行為として、民間各銀行は22,23の両日自発的に休業して貰いたいと相談した。両君は

これを諒承して直ちに銀行団にその意を伝え、私の希望通りを実行することに決定した次第である。

そこで一刻も速やかに国民を安心させる為に声明書を発表することになった。即ち「政府は今朝来各方面の報告を徴し慎重考究の上、財界安定のため徹底的救済の方策を取ることに決定しその手続に着手せり」というものである。

右の応急処置は疾風迅雷的に決定し、間髪を入れるの余地もなくとり行ったわけだ。一方、東京銀行集会所及び手形交換所連合委員会は、21日午前11時半頃、臨時委員会を開いて金融動乱に対する応急対策について協議した結果、この場合、各市中銀行の連盟に困難なる事情あり、ただ日銀の徹底的援助を待つのみ、併しこれを行うとすれば日銀の損失を保障せざるばからず、それがためには議会の招集又は緊急勅令発布によるの外道なしと決定し、池田串田両君がこの決議文を携えて日銀の市来、土方正副総裁と共に、私を訪問して陳情せらるる所があったが、内閣ではその時すでに補償案を決定し、その法文を練っている所であった。

その夜11時頃対策案が出来上がったので、私は総理官邸から直に倉富枢密院議長を訪問して、あす緊急勅令案が枢密院にご諮詢になる手筈であるが、就いては事態の急なるに鑑み、一刻も速やかに議事を終了し、財界の不安を一掃せられたいと述べ、一方、平沼副議長には前田法制局長官が行って諒解を求めたという事だった。

かくて私が自宅に帰って床についたのは午前2時過ぎで、翌22日には早朝5時に起き、8時には官邸に出勤したという有様。老齢で殊に病後ではあり、家人達は頗る心配したが、人間は精神が緊張している時には、割合に疲れぬものだ。そこで私の健康は大丈夫だったが、折悪しく総理大臣が俄に発熱して一週間ばかり引籠もることになったので、私は総理大臣の代理までしなければならぬことになり、午前9時に赤坂離宮に参内し、財界救済の緊急策としてモラトリアム施行のやむべからざる旨を上奏し御裁可を経た。

そこで直に枢密院にご諮詢となったが、枢密院側とはかねて打合せが出来ていたから、枢密院では早手回しに精査委員会を召集してご諮詢の廻ってくるのを待ち構えていたという有様で、午前10時半頃から委員会を開き、11時50分頃全会一致を以て可決した。

次いで午後2時半から宮中東溜の間で、天皇陛下親臨の下に本会議を開き「憲法第8条第1項による私法上の支払い延期及び手形の保存行為の期間延長に関する緊急勅令案」を付議し、満場一致可決確定した次第である。