平和ボケ

日本人は自分が戦争を仕掛けない限り、自国に攻めてくる国はないだろうと安心仕切っているように見える。典型的な例がテレビ番組にもみえる。NHKでは度々オスプレイ配備の危険性を煽り続けている。一方、超大国の隣国、中国はかなり本気で日本を懲罰(戦争)したいようだ。30年前にベトナムに戦争をしかけたように。梁光烈防相が”中国はさらなる手段を持っており、すべての責任は日本側にある”とアメリカのパネッタ国防相に言っている。この文句は戦前、宣戦布告前に、各国列強が良く口にしていた文句である。それを単なる脅しと軽視したい願望は良くわかるが、軽視していい言葉と発言者では決して無い。猛獣が藪でゴソゴソする音を聞けば、身構えて準備するか、逃げるかしないと食べられてしまう。
日本の命綱は日米安保条約しかない。これはほとんどすべての日本人が認めていることである。現実にも今回中国が怪しい動きに出てきた時、(次期中国大使の急死?暗殺?、習近平が外国要人との面会キャンセル?対日強硬政策の検討?、など玄葉大臣などの表情は硬直化し事態を暗に示していた)、アメリカの国防相が日本で、尖閣日米安保条約の適用下とはっきり言明し、中国に行っても言明し、アメリカは傍観するだろうと中国が誤解して、挑発戦争を仕掛けないようにした。
また米国が日米安保条約尖閣に万一の事態が生じた時、米軍がオスプレイを必要とするのは容易に想像できる。それなのに、例えばNHKクローズアップ現代のように、オスプレイは厄介者、いらない、国民はほとんど望まないとしか報道しない。守ってくれ。しかし武器は使うなとは何と無神経で傲慢な国民になってしまったのではないだろうか。
中国は戦争研究の大御所である。過去5000年の積み重ねがあり、史記兵法書など、こうやって国を起こした、こうして滅ぼされた、など戦略、戦術の事例集で満ちている。日本でも戦国時代以降は、これを学び研究、実践することが明治初期まで行われた。戦後は官民ともに忘れ果てたようにみえる。
中国のここ30年の戦略は次のように言われている。
1.富国強兵で、世界に誇る国力と軍事力を築く
2.アメリカを東アジアから引かせるか、不干渉にする。
1.は大成功。それに貢献したのが日本を手引きとした西側との貿易、技術導入、外資の呼び込みである。いわゆる開国開放政策である。日中友好とはこの戦略の一貫であり、別に日本に恩義を感じているわけではない。史記の臥薪嘗胆という語の起源を見るとよくわかる。自国が不利な時はじっと我慢して、敵を油断させ国力と軍事力をつける。相手が油断したり、衰えた時をめがけて攻め込み滅ぼす。そして前回の戦争のしかえしをする。日本は長期の経済の停滞、大震災、原発事故と原発停止、国論の分裂、国防意識なし等々、衰弱の兆候ははっきりしてきた。まさにしかけの時期と見えてしまっている。水に落ちた犬は打て。
2.の戦略が成功すると台湾併合、沖縄占領がでてくる。尖閣を取るだけでは少なすぎる、沖縄は歴史的には中国属領だなどという言いがかりが、中国軍や共産党内に昨年頃から公式にでてきたようだ。魏志倭人伝遣唐使を理由に日本も歴史的には中国属領であったとか言い出しかねない。米軍が引いた後の世界は中国の思いのままだろう。これを華夷秩序というそうだ。中国(華)が法律を決め、周辺国は野蛮の国(夷)で属領ということだ。日本にとってさらなる厄介事が明治以来の大陸での歴史である。国の恨みを晴らしたいという名目は独裁者が特に好むフレーズである。例えばヒットラーがフランスを占領した時、戦勝の条文を交わした場所は、それ以前の戦争でドイツがフランスに降伏した場所であった。今後10年中国の指導を続ける習近平は「中華民族の復興」を旗じるしにすると宣言。対日戦争は駒の一つになっていそうだ。日本人は肝を据えるときにきたようだ。
日本や日本人には何をしてもいいという風潮が中国で続き強まると、ナチのユダヤホロコーストのように、日本を核兵器で攻撃することへのためらいがなくなってくる危険性と不気味さがある。その能力が十二分に中国に今現実にあるだけに、日本民族絶滅の黄色ランプが点滅しだしたようにも見える。最近の中国の日本から見ると常軌を逸した程のヒステリックな反応は、彼らから見ては当然と思っていることを、日本人は正視すべきだろう。特に安保条約反対を強力にやった過去を持つ人々や、新聞社などは、その延長線でしか考えられない傾向がある。米軍は悪で、中国やロシアは善であるという刷り込みと洗脳から抜け切れていない。この事態を正視できないことが日本の生存への障害になってきている。
大神様は説法で「次の大戦は3日で済む。逃げる間もない。日本やその近海に物資を集めてそこで起こる。核兵器が使われないということはない。文明科学の終幕までやらせる。これが最後の審判で切迫している。自分に神様が降りてきたのは、救われる道を教えるため。不意打ちでは人類がかわいそうだから。真人間になるしか救われる道はない。」という趣旨のことを説法開始から亡くなる直前まで一貫して説いていた。