スウェーデンボルグ”と仏教の空

スウェーデンボルグの教説が仏教の空を完全に説明していると思われる。例えば、

 スウェーデンボルグ『結婚愛』・P174-P183の要約すると、3つの秘儀が解説されている。
 A.人は神の映像として、神に似た形に創造された。
 B.鳥獣は(本能として)生存に必要な知識を生まれながらにして持っているのに、人は教えられない限り、すべてにおいて全くの無知に生まれてくるのは何故か?
 C.生命の木、善悪を知る木、この意義はなにか?

 A-1 神の映像とは、神からの流入を受ける状態であり、仏教では真諦成就(=空義=相応業=般若知 等)と各種に表現される人が到達できる最高の人格完成の状態であるとされている。自己の煩悩を降伏させて、業からのしがらみを離れ、完全な自由を獲得し、善からくる完全な認識(真理)を有し、各種神通を獲得している。一声を聞くだけでその人の善悪、各種心の状態までわかり、一目見るだけで、その人が、(仏、修業過程の持戒者、凡人、悪人、脱落した昔の修行者、等)をすべて分かる。これらが天耳、天眼、等の六根清浄という。日本人でこのレベルに達したのは河口慧海、慈雲尊者、明恵空海、が確実であり、道元栄西行基、道範、叡尊、忍性、聖徳太子良寛白隠、などの方々もそうであったと推察できる。
 A-2 神に似た形とは、人が自分から生きて考え、行動しているように感じられることをさす。自分が真理に気づき、その考えを所有している。善行をなすのは自分の意志で行っていると感じる。この自己性がないと、人は生きている実感と活力を得ず、従って向上するということもない。これは向上過程においては重要であるが、完成に近づくにつれ、神に似た形は神の映像と変わっていく。

 法華経に無尽意菩薩が観自在菩薩に「我より法の供養を受けよ」といって多くの真珠を奉ると観自在菩薩は受けなかった。「我を憐れむがゆえに受けよ」というと受け取り、直ちに2分して、釈迦佛と多宝如来に渡した。
 無尽意とは自己性が根絶できない(神に似た形)我々のことで、自己を誇る善行は、神は受けない。しかし自分の悪を見つめ反省して行う善行は神が受ける。また神の映像となった観自在菩薩は善行を自己に何等所有せず、本来の場所である仏に直ちに帰する。ということを表している。

 B-1 鳥などは何が食べれるか、どこに巣を作るか、作り方はどうするか、等々教えられずとも生存に必要な知識はすべて生まれながらに有している。魚とかカッコウなどは親からの教育は一切ない。一方人間は、これらすべての知識を他者から教えられないと持っていない。人は善悪、言語、知識をすべて人から教えられて生きていくように作られている。人から教えられ、最後は神から教えられる。鳥獣には向上ということが不可能だが、人だけが可能である。最終ゴールは神から教えられて生きるということである。(=神の映像)
 人は生まれただけでは人でない。法から身ごもり、法から生まれ、仏から生まれない限り、「人間」にはなれない。人が無知に生まれてくるのは、自己由来の真理と善がないことを承認できるためである。

 C-1 生命の木 とは神によって生きる人間のことである。また人間のなかに生きておられる神のことでもある。人を佛子という。この仏性のことを生命の木という。法華経などに良く出てくる表現に”菩提樹の前に座禅する仏”、”宝樹の前に座っている菩薩”というのがあるが、これは仁慈の神に常に向かいあっている人々という意味になる。

 C-2 善悪を知る木 とは{自分は自分から生きていて神から生きているのではない。(愛、仁慈、善)と(智慧、信仰、真理)は人間の中にあり神から発していない。}と信じる人間のことである。善悪を知る木の実を食べることにより、自分は自分から完全であると信じてしまう状態を意味し、神仏を否定し、地獄に至る悪行になる。善星比丘、デーバダッタは共に秀才で、全経典を暗誦できたが、自己の理知を誇り、仏に帰依する心がなく、仏言を聞き守るということをしなかったので、地獄に落ちた。
 なおこの木はシスティーナ礼拝堂ミケランジェロの絵にはいちじくとして描かれている。北村サヨ(大神様)の説法でも「いちじくの実を食べて天国から追放されたと聖書にかかれている」と言われている。リンゴの俗説は誤り。

 人間は神から愛と智慧を受けるように創造されたが、外観ではそれらは自分から発しているように見えている。これは神からの流入の受容と、神との連結のためである。この理由から人間は最初いかなる愛と知識の中に生まれてこない。自分自身を愛し、賢明になるいかような知識の中にも生まれてこない。それで もし 彼が愛のすべての善と、智慧のすべての真理を神に帰すならば、彼は霊的に生きた人間になる。(人無我)それらを自分に帰すならば、霊的に死んだ人間になる。
 これは仏教の空を完全に説明している!