大神様ご在世中の天声
大神様の晩年のご日常に多く接する機会を得た同志の話によると、大神様は天声をよく読まれていた。このことから大神様が読まれた天声は特別重要で、それは創刊号から168号であると言われていた。確かにこれらの天声には、その前月の大神様のお写真があり、大神様がどのような活動をされていたかの記事が載っている。つまり天声の中に大神様が大きくご存在されているのである。これらの記事を読むことが、大神様に会ったこともない同志には重要であると思われる。
1例に本部道場余録という天声編集長の中山公威さんが書かれていたコーナーがある。神の国の歴史がよく分かるコーナーでもある。
天声48号(紀元12年12月号)本部道場余録
この頃の本部道場は本当によろこばしいことに、大神様に対して個人的お伺いする者がなくなりました。
大神様も「大部楽になった。この分だともとのような声がでるかも知れない」とおもらし下さいました。私共にとって喜びこれに勝るものはありません。
本誌にも記載してありますように、10月末から11月初めにかけて大神様には10日間み歯の治療に呉にお出かけになりました。米国滞在中よりお痛みの歯をご治療もされないで同志のためにご説法を続けて下さり、痛む歯に綿をつめては道場に出られる大神様だったのであります。これというのも私共同志の一人歩きが出来なかったために、ご治療をのばされたのではないかと思わさせていただく時、ただただ懺悔あるのみであります。この度、心おきなく呉にお出まし下さり、ご治療していただきましたことを喜ばせていただいております。
本部の状態も参って来られる同志一人一人の自覚により、大変引き締まったものになって参りました。この上もお互いが行じ、磨き合って、一人歩きの行をより進めさせていただいて、本部道場を、大神様にとって真のお休み場としていただけるまで行じさせていただきましょう。
今年もご本部の田は見事な実りを見せてくれました。何時も農繁期のご奉仕をめがけて遠近より集まって来る同士の方方の晴れやかな顔、喜々として機敏に真心から働かれる方々の美しい姿、これも神の国ならでは見られぬ情景のひとつであいます。
大神様が呉からお帰りの際、佐藤正忠という、まだ若いジャーナリストが大神様のお供をして本部を訪ねられ、三日間行じられて、9日の夜東京に帰って行かれました。同氏は月刊雑誌「若人」の記者もされ、他にも単行本も2,3冊発行されいる前途有為の青年文士であります。
日本青年をふるい立たせるものを探し求めて、日本国内を旅行し続けて最後に神教こそ、それだと感激され、3日3晩大神様のご懇切なるご指導を受け、この感激をそのまま書かせていただきますと、張り切って帰って行かれました。変わった形で神教が世に紹介される日も遠くありますまい。時に応じた神役者を神の電波で引き寄せられたものと嬉しく思わせていただきます。
全国の同志の方々が伝道に立ち上がられた結果、本年は農繁期になっても毎日新しい同志が後から後から参られております。一方、9月以降新しい支部結成やこ磨会発足の情報も次々入ってきて喜ばしい限りであります。
(注)佐藤正忠氏は雑誌『経済界』を創設し主幹として長く活躍したことで知られている。彼は辻政信、中曽根康弘、宇都宮徳馬氏などに神教を伝え彼らは当時20数時間かかる田布施まで来て大神様を訪ねた。彼は石原慎太郎氏とも交流があり、石原慎太郎氏が『巷の神々』を書いた時、天照皇大神宮教関係の情報は佐藤正忠氏が提供したものであった。これが一部不正確であったため、蓮田昇さんが大神様の許可を得て天声に手記を連載、それを石原慎太郎氏に送り訂正を求めた。
(注)著作権法では雑誌の発行年から50年以上経過したものは著作権がなくなり、国民が自由に引用したりして文化遺産を利用できることになっている。ただ日本が2018年12月TPPに加盟したことにより70年にのばされた。この加盟時点で著作権の切れていたものはそのままきれている。これを天声に当てはめると、ちょうど大神様ご在世中(紀元22年12月、1967年12月まで)に発行されたものは著作権が切れていて、図書館などで全コピーしてもらえることになる。