河口慧海の伝記

河口慧海の伝記には3,4種類あるようだが一番よいと思われるのは

河口正 ”河口慧海” 春秋社 2500円

河口慧海は6人兄弟の長男で生涯独身であった。チベットから帰国後は、弟の 半端 の家に奇遇していて、食事の世話は半端の妻 よね が主にしていた。半端・よね の子供が河口正、宮田恵美(結婚相手はNHKの有名アナウンサーから参議院議員にもなった宮田輝)であった。彼らは子供時代から非常に長く接して、多く知って感化も受けたはずだ。手持ち資料も豊富で河口慧海の日記も所有していたようだ。このため一番正確な河口慧海についての認識を持っていた。
いろいろな人が資料を借りに来ては、河口慧海のことを書き、それがかなり酷いものが多かったため、正確な伝記を作ろうとして、河口正 ”河口慧海”が書かれた。

その後も何点か伝記が出版されたが、これを超えるものはないようだ。
私が河口正以外の伝記に感じる不満は、著者が河口慧海の神性を認識していないか、神性を認識することがあまりに少なすぎるように感じられる点である。

河口慧海は世界的な名僧であり、日本に何百年に一人というような大聖人であったという根本認識が欠けているのではないだろうか?
例えばもし誰かが”釈迦伝”を、”釈迦の業績をこう評価”するという態度で本を書いたら、彼は仏教を信じていないだろう。さらに言えば、冒涜の罪にあたりかねない。これと同じく、河口慧海が仏教の聖人であるという認識を欠いた伝記というのは、イチローの伝記に、野球の名選手であるということがかかれていないようなものである。

しかしこれは驚くべき現象ではないようだ。

一番極端な例は
  神イエス・キリストを人々は十字架にかけて死刑にまでした。

空海も死後数十年で墓は荒れ果て訪れる人は稀であったらしい。

玄奘も死後数十年で墓はなくなったようだ。玄奘三蔵 長澤和俊訳に書かれている。
弟子の演化は略奪を恐れて遺骨をもって長安から逃げ出しこっそり埋めなおしたらしい。後年、日中戦争のさなか、日本軍は昭和17年7月南京で兵器庫を作り駐屯していたが、稲荷神社を作ることになり整地していた時、土中から石棺を発見した。日中両国の専門家により調査したところ、石棺に刻まれた文章と立派な副葬品から玄奘の頭骨であることが判明。日本軍はすべて中国側に引き渡した。中国は南京玄武山に5重の塔を作り祭った。また日本側の公正な処置に感謝して霊骨の一部を分骨して日本仏教会会長に送った。
これは現在も埼玉県慈恩寺の(はずれの丘の上の)13重の塔に埋葬されている。私も3年前に訪ねたことがある。

もっとも大きな理由と私が思うのは以下の点だ。
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 宗教を生活の道具にしてはいけない
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という釈迦の教え(キリストの教えでもありスウェーデンボルグの教えでもある)を忠実に実践した河口慧海が、宗教を生活の道具にしている大多数の人々にはうとましく映ることが想像される。

キリストはエルサレムの神殿で両替人の店とか、生贄の鳩をうる店を壊し、神の家は祈りの場であり、商売の場所でないと教えたらしい。(宗教を生活の道具にしてはいけない)このようなことから当時の支配層であるユダヤ教司祭グループ(パリサイ派)から憎まれて殺された。

河口慧海は(宗教を生活の道具にしてはいけない)ということを鮮明に説いた”在家仏教”の出版以降、(ある種の人々が)離れたようだ。これは現在も続いているかに見える。

宗教を生活の道具にしてはいけない という教えは関係者には誠に厳しい道である。
宗教を追求した結果としての生活をうけいれるべきだ ということになる。
最近天照皇大神宮教という新興宗教の教祖、北村サヨがこれをつぎのように厳しく説いていることを知った。
{伝道で一切の金を受け取ることを禁じ、教団員は自分の職業で自活することを求める。教団はそれで生活する説教師を持ってはいけない。伝道は各人の自己負担でやることを徹底し、伝道のために招かれても、お茶以外(たとえジュースであっても)受けることを禁じた程徹底している。}
生活のことなど気にかけるな(出家が髪(生活)を落とすことが表象している)
食事とか衣服とかに気を配る必要はない。野の草でさえ神は美しく装われる。

私の幸運は自分が宗教がらみでお金をもらったことが一度もないことだろう。もしそうでないならこんなに素直になれたか自信はない。