日本に仏教は生きているのだろうか?

2年前にインド仏跡ツアーに行き、同行者たちの仏教全般にわたる知識の乏しさに驚いた。世間一般も同じで、書籍売り場でもこれはという仏教関係書は誠にすくない。(南海寄帰内法伝、白州正子 明恵のような例外はある)この原因はなんだろう。
真実の僧がいないため。
真実の僧とは仏の戒律を命がけで守る僧である。明治まではたしかに多数みえた。
そのおかげで日本は世界に冠たる道徳社会であったらしい。(ライシャワーの”The Japanese")

現代ではほとんどの寺院は葬儀屋以上のものは稀と思われる。真に仏の戒律を堅持している僧はどこにいるのだろうか。
できもしないことをしているように見せる。これこそ不誠実であり、嘘であり、精神的詐欺である。
このことが仏教の真を説くのが稀であり、積極的に社会に行動することことが稀である原因に思える

4重戒である不マイ(ノーセックス:自己性である悪と連結しないことの象徴と思われる)を始め、3衣を離さないの戒(これは衣=真理をつねに離さないという象徴で、聖書の”あなたの裸をみられてはいけない”と同じと思われる。真理に3レベルありそのため3衣になる)非時食戒(12時をすぎれば固形食を食べない=日が昇る=向上している間は食(善行と教義)に努力する。日が落ちる=教団が悪に傾きだせばその教義を取り入れない  の象徴と思われる)等々250もの戒律を守ることは現代では不可能と思われている。あの戒律を命がけで守る僧であった河口慧海が”在家仏教”を出版し在家宣言までしたことが一番明確な証であろう。
末法時代には在家の仏教徒が菩薩となり仏教を伝え続ける。しかしこの時には出家の弟子はいない。涅槃経。
この言葉を自分みづから体現するため河口慧海は聖僧のまま在家宣言し(戒はそのまま守って)僧籍を消した。
これこそ法華経で”手(世間の評判、地位、財産等生活を支えるもの)を焼き仏に供養(仏の真実の教えを人々に知らしめたいという慈悲の愛が燃え盛る)、不具となり、その後黄金の身体を得た(成仏した)一切衆生喜見大菩薩そのものに見える。
天的教会の表象である出家仏教をやめて、隣人愛に基づく霊的教会である在家仏教を再発見された。
これこそキリスト教における、スウェーデンボルグの”新しいエルサレム”の仏教版ではないだろうか?

河口慧海を学ぶこと、チベット旅行記を越えて学ぶことが現代の閉塞を超える鍵となると思う。