実行だ

神教は実行だ。実行だ。と大神様は常に説かれた。同じ意味のことが老子にもでている。
道徳経第41章
上士は道を聞きては、勤めてこれを行なう。中士は道を聞きては、存するがごとく亡うがごとし。下士は道を聞きては、大いにこれを笑う。笑わざればもって道となすに足らず。故に建言にこれあり。「明道は昧きがごとし。進道は退くがごとし。夷道はけわしきがごとし。上徳は谷のごとし。大白は辱のごとし。広徳は足らざるがごとし。建徳は偸なるがごとし。質真は渝がごとし。大方は隅なし。大器は晩成す。大音は希声なり。大象は無形なり」。道は隠れて名なし。それただ道は、善く貸かつ成す。
現代語:「上士は道を聞けば、勤めてこれを行う。   中士は道を聞けば、半信半疑と成る。  下士が道を聞けば、話は大きいが中身がないと笑う。  だが、彼らに笑われなければ、本当の道でないのだ。  古の人はこう言っている。  『明るい道は暗く見え、前に進んでいる道は後ろに退いているように見える。平らの道は凸凹と険しく見える。  高い徳は俗っぽく見え、輝いている白は汚れて見え、広大な徳は何か欠けているように見え、健全な徳は悪賢く見え、純真な性格は移りやすく見えるものだ。  大きな四角は角がなく、大きく貴重な器物はなかなか完成しない。  とてつもなく大きい音は耳に聞こえず、限りなく大きいものは、その姿が見えない』と。  道は無名であるが、この道だけが万物を援け、よく育成しているのだ」。

言葉に詰まる程深く素晴らしい。
上士とは因縁の良い人で根が良い人のことである。道とは今の日本では神教である。「正しき神は道を教えるのみ。行くも行かぬも己次第。」と説かれた。勤めてこれを行うとは神教実行である。つまり根の良い人は神教を聞くと直ちに実行する。という意味。
中士とは世間常識の囚われから抜けれないが、頭では神教が正しいと理解できる人である。行きつ戻りつする人であり肚が出来ない人である。
下士とはウジ虫と呼ばれた人々である。霊界ではウジ虫として現れる人であり、一にも自分、二にも自分という利己のみの人である。彼らに神教は理解不能である。
世間一般の道徳のない人間が直ぐに飛びつくような教えは本物でない。例えばどんな悪いことをしてきても、死ぬ間際にお金で戒名を買えば救われる、「なみあぶだぶつ」と言いさえすればOK。という類の教え。これに祈ればお陰があります、病気も治りますという無条件救済の教えなどである。一方、自分の悪い所を直しなさい。悪事をせず、善行に励みなさい。人や社会を批判する前に、まず自分を反省して直しなさい。人間道を歩んで真人間になりなさい。常に天に恥じない道を踏みなさい。世界平和のお祈りをしなさいという教えは、自分の得ばかり考えている人間に笑われる。つまり「彼らに笑われなければ、本当の道でないのだ。」
地位名誉財産に繋がる「成功」の道は世人には明るい道に見えるが、神に行く道は損な暗い道に見える。しかしこれが本当の明るい道である。自己実現でどんどん進んで行く道は、我の天下を舞い、業を積むだけ。6魂清浄になるよう、自己と執着を捨てる道は世人には退いていくように映る。試練を神に行く向上の糧と感謝で受けると人生は平らな道で心は常に平和。試練に溺れると凸凹と険しく見える。まだだめ、まだだめ。自分にはまだ欠けた所があると自覚し死ぬまでが行の道。これが正しい。もう自分は完成したと思いそれを誇示するようになると直ぐ落ちている。これらが「高い徳は俗っぽく見え、輝いている白は汚れて見え、広大な徳は何か欠けているように見え、健全な徳は悪賢く見え、純真な性格は移りやすく見えるものだ。  大きな四角は角がなく、大きく貴重な器物はなかなか完成しない」
神の声が聞ける所まであがってこい。神と肚が合えば神人合一、天使神に使われる。世人にはこれが分からない。神というのは人間の理解の対象を超えている。これが「とてつもなく大きい音は耳に聞こえず、限りなく大きいものは、その姿が見えない」
以上のように私は考えた。
ちなみに40章は
反は道の動なり。弱は道の用なり。天下万物は有より生じ、有は無より生ず。

「元に戻そうとするのが道の運動法則なのだ。 柔弱なのは道の作用である。  天下の万物は有より生じ、有は無より生じる」。
神に帰るというのが道の運動法則。すべての物は現象界の物から生じているが、実は実相界(霊界)に原因がある。この世は霊界の影であるという意味。
(注)天照皇大神宮教で「神教を実行」という時、何を具体的に実行するか、はっきりしないと感じている人もいる。基本事項を整理すると
1.神行とは神に行く。
2.神に行くには心の掃除より外はない。
3.心の掃除とは、肚を作り、真剣な(利己目的でない)世界平和のお祈りをし、これまでに踏んだ人生の反省懺悔をして、今後は人に迷惑をかけずに罪を重ねないように日々務めることだ。
http://d.hatena.ne.jp/Newshirogarasu/20130814/ 心の掃除
4.心の掃除が出来ると真人間になる。真人間になるのと心の掃除をすることは同じことだ。こうなると神に使われる。これを死ぬまで続けるために、日常生活は人間道を踏む必要がある。
5.真人間の世界平和のお祈りは天に届いて世界平和が実現される。やっておくれよ神国のために。
6.道場参り、ご奉仕、支部の磨きの会参加、伝道などで徳を積み、後継者育成などの「神種を枯らさない」努力をする。
7.神教というのは人類に対して神様が説かれたものであるから、範囲は広大、対象となる人も役目も様々であり、一括りにできない。
自分の心行は最重要で、「神教というのは、{道場を造りゃ金を出しゃええ、忙しけりゃ奉仕をせりゃええ}そんなもんじゃないよ、神教を実行せんにゃだめ」と大神様は指導されたこともある。心行とは抽象的であり、再び最初の疑問「具体的に何を実行するのか」に戻ってしまう。「神の国」にも同種のことがおきる。神の国は形に見えるものではない。神教実行する人の心に生まれて肚で育つ。大神様の前で説法を聞いていても一人は天国におる。一人は地獄におる。大神様のみ前におれば同じじゃないかという。違う。己己の魂で行く。大神様はこのように度々ご説法されている。このように徹頭徹尾、神の国とは形式ではなく、心(霊界・実相界にある)を磨いて到達すべき天国であると説かれている。では、心だけの問題かというと違う。心と言葉と実行とは一致しないといけないから、心が「神の国」に住まえば、自然と行動(形式)もそれにふさわしくなる筈である。發言も上品になる筈。奥は深い。
普通の人は、神社に参る時の作法は柏手、お寺で拝む時は合掌、というように宗教は形であり儀式であるとしか思っていない。神教は自分の心を直して真人間に近づき、人間道を実行する。日常生活で接する人それぞれに正しい人間の礼儀で接する。日常生活に神教が入っていないといけない。これが人生を豊かにしてくれる。このように説明する人もいる。形の宗教は霊界と現実世界との相応の知識から生まれ、神と人間との繋がりが間接的て不完全であっても、完全になくならない為に生まれた。生きた宗教では神と人間とが直接繋がる。

神教Q/A

天声には昔Question/Answerの欄があって、皆が疑問に思うことが答えられている。答えは天声係が書く場合もあるが、天声係がわからない箇所は大神様に直接お聞きしてから答えを書いている。
Q1.神教と世間の慣行との矛盾についてはある程度の妥協は許されるのでしょうか?例えば位牌の廃棄など抵抗が大きいのですが。
A.神教は決して外面的法則や戒律を強要するものではありません。神行はあくまで魂の問題であります。それ故神教をよく聞いて神行していけば、自然に偶像もいらなくなるし女性なら化粧も嫌になる筈であります。
魂がよそに行っていたのでは如何に外面的につとめてもこれでは問題になりません。家族全員で神行していない場合、偶像の廃棄は困難でしょう。自分はあくまで動かぬ神の肚に合わせておいて、時を(家族が神行を理解し入るのを)待たれるのが良いでしょう。しかしそれは決して世俗との妥協ではありません。時を待つだけです。
Q2.神教を伝道しようと思うのですが、実行が出来ていないので、受け売りのような気がして積極的になれないのですが。
A,神教の実行ができてから神教を説かせていただこうというのでは一生涯伝道は出来ないでしょう。勿論自分が実行も出来ないことを、出来たふりして説くことは絶対いけませんが、大神様のご存在を伝え、そのお説きになることを、そのまま神言として伝えさせていただくことは少しも差し支えありません。そして出来ないながらも一生懸命やらせていただく自分の行も、そのまま伝えさせていただけば良いでしょう。大神様のご出現や神教を伝えさせていただくことも私たちに神から与えられた自分の行であることを忘れてはなりません。
Q3,家でしっかりお祈りして神教を実行しておれば、支部の磨きの会に行かずともよいのでしょうか。
A,自分では神行していると思っていても、いつの間にか腰を下ろしたり間違った方向に進んでいるものです。再々神教に接し、すり合わせをさせていただくためにも、磨きの会に出るべきです。
大神様は「支部の磨きの会に出席し、支部を盛りたてて行くことが大きなご奉公だ。神へのご奉公を忘れて行ける道ではない。」とお説き下さいます。
Q4.お祈りの詞に「我が身は六魂清浄なり」とありますが、この祈りは六魂の穢れた凡夫には唱えられないのではと外部から指摘されました。
A.この祈りの詞は我々人間が作ったものではありません。絶対神御自ら私たちにこの祈りを祈って、魂磨いて行じて来いとお授け下さったありがたいお祈りです。それを「ハイ」と素直に祈って行じて行く所に行かれる天国なのです。
Q5.お人好しの馬鹿になるなというご指導はどんな意味ですか。
A。終戦後政府に山林を買収された同志Cがいた。その山にDが植林して木は大きくなった頃政府が元の所有者Cに払い下げした。DがCに植林にかかった実費を請求してきた。Cが大神様にお伺いすると「神教だから言うが、皆が人よし馬鹿にならんことよ。人よしになって、ええ、ええと何でも我慢して、それが神教と思いなさんなよ。肚はすぐ『馬鹿、払うことは要らん。泥棒するのを手伝うちゃるのと同じじゃ。植林を頼んだ者に請求せい、と言うてやれ』といいよった。その土地に人まで雇うて植林するというのは、植えちょいたら何時のまにか自分のものになろうという下心があるからよ。蛆の世界の法律でも泥棒の手伝いをしたら、泥棒したと同じような罪になるよ。わしが獄屋の行をする時、隣に入っておったおばさんは『泥棒が盗んだ物を買うてくれ、と泣きついてきたから、親戚で引き揚げてきて困っちょった者がおったので、買うてやったら罪になって監獄に入れられた』と言うておったよ」
神教により、自分が今まで自己中心で罪を重ねて来たと反省ができ、自己中心でなく利他に生きようと努力するあまり、「自分は損をしてもいい。他人に良くさえすればよい。これが神教だ。」と単純に考えている同志が多い。しかし場合により神教の冒涜になってしまう。これが「お人好しの馬鹿になるな」というケース。
利己を捨てても神のみ心に沿わない場合がある。相手に同情して、人の悪事を赦したり、人の利己を増大させる行いなど。悪には譲歩しないで戦うことも同志に求められているわけです。

ご説法抄録

わしは宗教の押し売りするのと違う。お陰いただきの信仰じゃない。人間として知らにゃならん時が来たから、本当の人間の道を教えてやるのよ。今までの信仰は神様をこきおろして利己に使おうとしていたろうが。動かぬ神の肚に動く人の心を合わせる。神行とは神に行くと書け。魂磨いて神に行く。合正とは正しく合う。神と人との肚が正しく合うようになったら、神人にあり。人神にあり。神と人とが共にいて、神人合一これが真のしんこうよ。曲がってくねって神から遠ざかり、地獄まで堕ちておる者が、(死んで金が)いらんようになったら乞食の坊主や神主に金や品物をやって、戒名を書いてもらったぐらいで涼しい顔をして天国へ行けるのなら、天父はむりにこんな独りしゃべり(大神様のこと)を創るに及ばない。
神の国には地位も名誉も金も財産も通用しない。神のとるものは人の誠心(真心)だけなのよ。誠心さえありゃ、肚と祈りを足してやり、老若男女誰でもつれて行くのが役座(大神様のこと)の腕前よ。国境もなければ人種の差別もない。早く心の目をさましなさい。
役座の吐き出す神の清水で穢れに穢れたその魂を洗いさらして、上がって行きさえすれば誰でも行かれる天国よ。わたしでやれるだろうか、行かれるだろうかと案じるには及ばない。わしがしゃべり始めた頃には、あなたの言うてのことは理屈に合うておるが、とても人間じゃやれないというていた。それほど皆人間の道から離れておった。人間の道を離れて人間の行はない。おやじにはおやじの務めがあり、女房には女房の道があり、子供には子供の道がある。日常生活に折り込んで生きた宗教でなかったら絶対に救われはせぬ。わしは単刀直入、真人間になれという。経文や本を読んで、わからん奴がわからんことをいうのを聞いてわかるわけがない。
原爆や水爆が出て皆不安におびえておるが、あれは殺虫剤よ。田に虫が殖えたからホリドールを播くのと同じこと。最後の審判が来たのよ。悪魔祓いがあるというても、よそごとに思うておるじゃろうが、やるぞ。心の悪魔を掃除しておかぬと皆祓われるぞ。新聞の三面記事を何と思うて読んでおるか。切って切られて取って取られて女房が主人を殺すやら、主人が女房を殺すやら、子が親を殺すやら、親が子を殺すやら(世の終末の様相がでている)、昔は殺人や自殺はめったになかったが、今頃はない日があったら寂しいくらいあるじゃろう。悪魔の自滅する姿に愛想がついたなら、今度こそ神行、神に行く道まっしぐら、魂磨いて上がっておいで。神を求める前に神から求められる者になれ。神の好く人になれ。神の好く人誰も好く。開け行く国、没する国、油断しておると崩れ行く国の下敷になってしまうよ。
東京の座談会でも、皆を何とかして救うてもらいたいというが、わしがいくら呼びかけても耳を傾けない。(自分の悪い所を)直そう(そして神に救われる)としないで、神の国を下界に創ろうとしておる。このくらいの人数でも、皆さん、神の国を創ろうではありませんか、というて意見を言わしたら皆勝手なことばかりいうて、あすの朝までかかってもまとまりはすまい。川に落ちた者が冷たかろうというて、とびこんで濡れたまま抱いてやっても温かくはならないじゃろうが。(自分を直して上がってくる者しか、神は救えない。天は自ら助く者を助く。)
世界平和は悪霊済度の祈りによってできる。悪霊の後びかえで人と人とは喧嘩をし国と国とは戦争をし、病気や悩みの種となる。実相界(霊界)のかげろうが現象界(現実)。実相界はフィルムで現象界は影法師。悪霊済度は法力のある祈りでなければできぬ。法力は無我で神に使われる者に神が与えるもの。宗教は利他、己を捨てたら己そのものが救われる。
あんたら田布施の道場に来りや、悪口言われるじゃろうと思うてよう来ないじゃろうが、(神に)悪口言われるのは仕合せよ。きびしい鞭の後ろにはやさしい愛の手がのべられている。わしの姑さんは食わせもせん、寝せもせん、気持よう食べさせてくれたのは南瓜(カボチャ)のすえた時だけ。百姓の仕事がひまになったら、日に10回ぐらい帰れ(離婚して実家に戻れの意)というたが、あれが行じゃった。もしあの時わしが里へ往んでおったら、今こうして皆に説く資格はない。アメリカのバーネット博士が留学生の吉田禎悟に、わしの所の宗教を調べるようにいったから、吉田は本部道場にもやって来て「大変失礼だけれど、大神様は学生時代の下宿のおばさんのように気安い。神様が人間に化身されるとしたら、あなたのような方でしょう」と言うた。神が人間に化身したのと、人間が神に化けたのと間違えなさんな。真人間の道を踏み、生神の素性を持ったものでなければ神様は使やせぬ。
(注)紀元12年(昭和32年)3月12日光市島田領家でのご説法の抄録であり天声41号に掲載されている。大神様が目を通された抄録と思われる。神教の真髄が良くまとめられている。光支部史P14−p20に、さらに詳しい抄録と思われるのが掲載されている。
お陰いただきの信仰とは、「仏教で立派な僧侶に布施をすると徳のおすそわけをもらえる」ということから派生した信仰。災難よけ(家内安全)、病気なおし、福運招来(家業繁盛)などを祈る信仰のこと。自分と家族のことばかり祈る利益信仰であり、自己をつのらせた信仰である。

ご説法の一言

1.神教で人を縛るな。自分の肚を神の肚に合しておいて下がって優しく説いてやれ。
2.世は末法の世。魂と魂が食いつきあうから、互いに困った、困ったの地獄の世界に落ちていく。悪霊済度の正しい祈りをして一人一人が天に恥じない道を踏んでいきさえすれば、世の中は丸く治まってゆく。
3、人を羨むな。人が栄えるのを喜ぶようになれ。人より一足遅れてもよい肚を作って行じて行けば、天の供給は誰にも与えられてくる。
4.支部でも皆が良くやって下さるので自分もやらせていただけると感謝して拝みあいで行く所に和ができる。わしはやりよるのにと、不満に思うと支部はバラバラになる。
5、今までは「箱入り娘」をよいと思うていたろうが、神の国では世の中の裏も表も甘いも酸いも分かる人でなけりゃいけない。わしは根性の悪い者には良くなれというが、人の良すぎる者には人の肚の中が読めるようになれと説く。
6、自分が盲だから神まで盲にしておる。わしの肚は誰が何をしているということを皆知っておる。皆は神の網にかかった雑魚と同じ。水の中におる間は誰も知らんと思うじゃろうが、網を引き揚げてみたら全部暴露される。神の眼は絶対にごまかされない。今突き出された方が幸せよ。死んで閻魔の前で、お前は地獄行きと言われたのではもう遅い。生きているうちに犯した罪は皆懺悔せよ。
7、今日一日はこれで良かったであろうかと反省懺悔させてもらえるだけでも有難いと思いなさい。
8、我が子の生きる道は親がつけてやらなければいけない。それには親が正しい道を踏み真人間になって子供を指導しなくてはならない。30歳になっても60歳になっても我が子に変わりはない。親が魂磨いて先に行じてゆけば、いくらでも指導できる。
9、子供を育てるには自分も子供に戻って育てよ。
10、何事にもまず先に親にと思ってしておけば、今度は子供が(自分を)大事にしてくれる。親をそっちのけにしておいて、子供、子供と思うて子供ばかり大事にするから、子供は大きくなって自分の子供ばかり大事にして親を忘れるのよ。
11、見栄や体裁にとらわれて心にもないつきあいをすることがないだけでも幸せよ。
12、一粒の米にも生命がある。生きたいという気持ちがある。生かしてやらねばならぬ。食べ物は食べられて初めて生命を全うせられる。人間は一生魂を磨き行じて初めて生命を全うせられる。
13、朝茄子の辛子漬けをするとき一切れ落ちたので牛にやる桶水の中に入れようとしたら、肚の神が「お前でもちょっところんで泥が付いたからというて、どぶ水の中に入れられては困るじゃろう」というた。すべて生あるものと思うたら生かして扱い粗末にしてはいけない。(漬けものに泥が少しでも入るとボツリヌス菌の危険があることは考えておく必要はあろう)
14、天に恥じない道を歩んでおれば、いつどこに行っても心配することはない。わしは獄屋に入っても歌を歌うていた。肚が行けというから行ったんじゃが、皆も魂の監獄には入るな。(強すぎる願望、トラウマなども心の牢獄を作る。6魂不清浄が牢獄を作る)
15、神の網の中で、人間は悪い事をする。それを今まで見抜く者がなかった。地位や名誉や金や財産を捨ていでも、行かれる。そのままで行け。囚われるのが悪い。
16、人生行路は浮きつ沈みつ、沈んでも悲観するな。浮いても有頂天になるな。丁が出ても半が出ても、ハイ有難うございますで、行くのが神行よ。半が出た時こそ、真の行が出来るのよ。
17,神国のお役に立つ者を皆で盛り立て、道にはずれておる者は皆で戒めあい、引き上げて共に行じて行け。人に言われたことをいつまでもこだわらず行じるように。公明正大な道を行く者は、いつでもニコニコ朗らかよ。
18,日蓮と蒙古大襲来という映画があったが、良い所ばかりじゃった。日蓮はあれ位の行じゃない。もっともっと難行苦行をした。それと較べて今の同志の行は百万分の一にも足らない。皆が偉いのじゃない。時至り絶対神が天下って正しい行の道を教えておるからこそできるのよ。その時に生まれ合わせた身の幸を喜びなさい。
19,太陽は宇宙の1分身にすぎないが、一つしかないので今まで皆が神の目印として拝んでいたが、今度はわしの顔が目印となって、ハワイ・アメリカの方まで行っては睨んだり拳骨を入れたりして指導している。生きている間だけやかましいのだと思うなよ。死んだらまだまだ世話を焼くようになるよ。(大神様のお写真が睨みつけて指導する。夫婦仲の悪いニューヨークの同志に大神様から手紙が届いたら、洗濯中であった妻がいきなり3回殴られた。人はいなかった。大神様は手紙に拳骨を入れておいたと言われた。天声305号P43。殴られた人は夫婦喧嘩が治った。大神様御昇天後も霊での指導は多く行われている。)
20,蛆の世界では指導者は机の上で理論だけ説いていて実行が伴わないが、神の国では何でも出来る人間にならなければならない。
21、わしは医者も薬もいらない世界と、そこへ行く道を説いている。医者に行くな薬を飲むなというのでないが、医者でも薬でも解決のつかない世界、もう一歩先があるんだから医者がいらん肚があったら正しい祈りによって乗り切ることができる。医者は治す手伝いをするのだ。肉体に苦しむ霊がついているから苦しむ。だが医者や薬のいらん世界によう行かん者には医者に行くな薬を飲むなとは言わない。行って治ることもあるのだから。じゃが正しい祈りを忘れるな。医者や薬は二番三番と思って祈っちゃ行け。医者にかかっても誤解を招くようなことを言うな。
22、今までの信仰は自分の欲望を満たさんがための信仰じゃったが、今度の神行は欲望を捨てるのよ。
23、心に貧乏するな。心に貧乏しないと、ぼろを着ていても貧乏らしくない。
24、神行が難しいと思うのはいけない。ハイ、有難うございますと、すぐ実行に移してゆけば、やれる神様つけてやる。脇目もふらずに実行実行でゆく者が勝つのよ。
25、相手が悪い、相手が悪いと思う時は地獄に落ちていきずまっている。
26、鬼は自分の心の中におる。相手が良いから鬼が出ないだけ。どこを探しても鬼が出ないようになりなさい。
27、人の過ちをサラリと許せる人になれ。
28、真の親孝行は正しい宗教に導くことより他にはない。
29、如何に真心があっても神を信ずる肚がなければ真心を使えない。肚はあっても祈りがなくては行かれない。肚と祈りと真心と3つが大切である。
30、人生は短いものである。その日の出来事はその日に清算し、心の中に山積することのないように、一日一日を良く掃除し清らかな悔いのない行をせよ。
31、天なる神の大聖業の今なされている時に、自分がやめても大きな罪なのに、人まで止めさせるその罪は末代になっても消えやせぬ。
32、地獄は自分の我を通して落ちてゆくのよ。天国は神教をハイハイで行じて行くところなのよ。

昭和20年1月8日

この頃は日本は敗戦色濃厚で、各地で玉砕(部隊全滅)が相次ぎ、まもなく本格的な本土空襲が始まろうとしていた頃である。北村サヨ様(当時45才:大神様になる半年前)は肚の神様の命ずる修業を続けさせられて、翌日には天人の香が立ちだしていた。しかし世間の大半の人は気違いになったと思っていた。この日付のお手紙が残っている。気品ただようお手紙である。受け取った人は8年前からの知人(松本千枝:国民学校教師、赴任時サヨ様宅に下宿)で、前年末に結婚が決まり、それを「北村のおばさん」に知らせた返事であった。結婚して山本千枝さんになった。

あけまして御目出度う御座居ます。本年も相変らず。何時も御無沙汰のみで申訳ありませんが気持は何時もおなじ気持で居りますけれど、何故か此の頃私の体が自分の自由にならなくなりまして困っていますのよ。夜も昼もあちこちと連れあるかれて面白い事ばかりやっています。この私の気持はおそらくだれにもわからないだろうと思います。まるで天国にでものぼって行く様な楽しい世界が開けました。世の中ににくい者もおしい物も、ほしい物もない。災難が感謝になり、不運が幸運になって喜ばれる様になりましたら苦しいものは何もありません。本当に人生の最大の幸福は我が心であるという事がしみじみ毎日のように味わわされて其の日其の日の、感謝の日暮しさして頂いて居ます。

次におなつかしい御便り頂きまして真に有難う御座居ました。その後如何なさいましたのかしら御案じ致して居りましたが、いよいよ御良縁が御座居まして御片付きなさいます由、誠にお目出度う御座居ます。御歳若き身で子供さんのおありになる処に御片付きなさいますあなたの御覚悟拝見致して誠に心嬉しく思いました。只今の日本女性はそれでなくてはなりません。昔のように我が儘勝手自分の事ばかりいうて居たのでは、到底此の日本を背負うて行く事は出来ません。だれでも我を忘れて御国の御為にお尽しせねばなりません。持場持場は違えども自分に天より命ぜられた仕事だと思えば何も苦しいものは、此の世の中にありません。どうかどうか今日此の手紙をお読みになって、こうしたお気持を末長く持ち続けて其の可哀想な親無子となられた子供さんを天から与えられた我が子だとお思いの上で神に誓って引受けて、不幸であった主人を助けて世の中に生かして何の気残りもない様に御国の為に働かして下さいませ。それが今日のあなたへの御願い、又おはなむけと致します。

他家へ行かれると思えば御名残りおしい様な、又一方でそんな美しい御心掛けで其の子供さんと御主人を助けに行って下さる天女の様な楽しい気持も致します。でも互に何百里も隔てるでもない、又何所かで御目に掛る事が出来ない事もありませんから、又御逢いして語る日のある事を神に祈って居ります。義人もあれきり何の便りもありません。どこかの空で生きて居れば御奉公している事と思います。又天に御まかせした子ですもの。天のなさるがままにして居れば安気なものです。私は忘れた日が多い位でありますのよ。だれの子でもよい少しでも御役に立つ子が居ればそれを引きのばしてやり度いような気がしますのよ。私のような気になったら天下広しですよ。大きな気になって互に日本の御国を一つの家として生きましょう。では末長く御幸福の程お祈り申上げます。御両親様にも別に御喜び状差上げます筈の処失礼致します。宜敷申上げて下さいませ。乱筆にて失礼致します。   さようなら

(注)北村義人氏は大神様の一人子であり、当時は陸軍士官(獣医の大尉:23才:部下340名)としてパラオの部隊にいた。(昭和19年4月−20年9月)直前の赴任地はアンガウル島で防衛陣地の構築をしていたが、ここは昭和19年9月全員玉砕であった。この後補給が絶えたパラオの部隊は極度の飢餓状態に陥った。バナナの葉、茎、根まで食べた。海に出ては、火薬を使って漁を行い部隊のために魚を取った。義人氏はこの経験から火薬のエキスパートになり、終戦直後の極度の物資不足の中で宿舎等の建設、道路、敷地の整備事業を行う時、大石を火薬で割って建設材料にすることまでも自ら行われたようだ。旧道場の石垣をこの眼で見ると興味深いだろう。義人氏が若くして大尉にまでなったのは陸軍委託生試験という全国の獣医生で毎年2名しか合格しないという超難関の試験に合格していたためである。合格祝いに「天下一家春」の額を藤井中将から書いてもらった。太平洋戦争が始まり繰り上げ卒業。少尉任官。この大出世が郷里の近所の人の嫉妬を生み、実家が放火された。この放火を契機としてサヨ様の神参りが始まり、3年後に大神様になられた。義人氏は昭和17年11月27日に日本を離れ、最初の赴任地は大激戦地のラバウル。本隊(この軍団に宇都宮連隊長として山口達春大佐がいた:天声236号中山氏追悼文参照)は昭和18年3月以降ニューギニアに転戦しほぼ全滅したが、義人氏は本職の軍馬の管理をするため、昭和18年1月本隊を離れて広東司令部に移動。この途中輸送船団は米軍潜水艦に狙われ、義人氏乗船の船は揺れに揺れながら機雷をかわした。船の下を機雷が通った。大神様は修行中で体を揺すり、肚の神はこのようにして義人の船は機雷をかわしていると説明している。広東では司令部が爆撃され上官が死亡している。義人氏は外出中で命拾い。広東の部隊はこの後ビルマに移動しインパール作戦に動員され、ほぼ全滅したが、義人氏は昭和18年8月チチハルに移動し、途中田布施に一時帰省した。チチハルでは軍馬の管理をし、馬の健康状態を良くして部隊長が喜ばれた。そのため昭和18年末に、先輩将官の嫉妬による追い落としを狙った文書紛失陰謀事件が起こり、身辺調査の対象になった。町田田布施町長夫人から知らされ、大神様の修行がさらに熱が入った(日に3度の神参り・10回の水行など)。この後部隊は秘密裏に日本に移動し横須賀を経由して東松輸送5号船団で昭和19年4月パナマ諸島防衛に投入された。関東軍の南方転用である。義人氏の軌跡は大神様の修行に深く関わっている。19才で少尉になり、これが近所の人の妬みを引き起こし、放火事件に発展。ご行の始まりであった。文書紛失事件の軍法会議での処理により、肚の者が神という確信を持たれたようだ。軍法会議を主導した大佐は異例にも1民間人にすぎないサヨ様に「ご子息は無罪であり、今後ともいかなる不利益を蒙ることはない」と手紙で通知してきた。
(注)この6日後昭和20年1月14日には米津さん(女性)を訪ね、「肚の神が米津の姉に拾い者がおる」と言われた。この姉富永みよさんは終戦直後の昭和20年8月23日に外地から無一物で帰還し、9月6日家族連れ立って大神様にお参りした。富永さんはそれから約20年間教団の形ができる前から、出来た後まで教団事務を一手に(無料奉仕で)執り行った。昭和21年2月には教団初の出版物となる「神行のしるべ」を執筆したことでも知られている。これは大神様第1回東京ご巡教の留守中、お祈りをしていると「今夜から一つ一つ教えてやる」という神声が聞こえ、それを筆記したものであった。
(参考)
昭和16年12月太平洋戦争始まる。日本軍緒戦は勝利。マニラ、シンガポールなど占拠。
昭和17年6月5日-7日ミッドウェー海戦日本海軍が致命的大敗北。航空戦力の中核を喪失。海軍は徹底的にこの事実を秘匿。陸軍省内でさえ知ったのは数人の首脳部に限られていた。指揮官山本五十六将軍が後に戦死したとき、国葬にするのを躊躇われたのは、日本海軍壊滅の責任者であったためらしい。
昭和17年7月22日北村サヨ宅火事。
昭和17年8月7日ガダルカナル島攻防戦が始まる。昭和18年1月まで周辺海域での消耗戦争で、日本軍は中核船舶100万トン、航空機多数を失い、事実上敗戦が確定。
昭和17年8月12日北村サヨ様ご行が始まる。
昭和20年8月12日宇宙絶対神降臨。日本ポツダム宣言受諾。
昭和20年8月15日、敗戦。

贅沢と質素

わしが東京へ行くと駿河台ホテルの者は「是非来て泊まってくれ」と真心から言うので泊まったが、晩飯の残りを、わしはそれを明日の朝食うからのけといてくれ、と言ってそれを食った。「よそからいろんな人や宗教家が来るが残り物を食べる人はいない。教祖様ともある方が、、、」と言うが、わしは物を粗末にするのが嫌い。あっても贅沢に流れるな、なくても不平不満を言うな。それが神教よ。
自分が棄てなければそれだけ天の物を粗末にしなかったのだから、自分に必要なければ子や孫にその功徳がまわるのだ。物を粗末にすると罰が当たるよ。罰を当てる神はないが、皆知らず知らずに罰の種をまいておいては、それに突き当たっては困った困った言っておる。「神の国には無駄がない」蛆の世界じゃ何かことをするといったら、飲んだり食うたりして、いらん経費ばかり使っておろうが。新道場建設の支部長会議を開いて一億に余る建築の打ち合わせ会をしたが、皆自弁自費で、飯も菓子も出さん。麦茶をたいて出しただけよ。じゃが皆真心からやってくれる。このようなことが天が下、外にあったら出せ。
ハワイの人間は金を儲けては使い、儲けては使いする。水の流れるように金が流れて来るのじゃが、儲けた時に貯めておけば困ることもないのよ。儲けてもぜいたくをすると神様はさっと取り上げる。子供に多く物をやると粗末にするので親が「もうこれだけでよい」と言って取り除けておくだろう。神様もあれと同じことをやるよ。
イカを食うても沢山やると子供はええ所だけ食うて赤い所が残っていても次々に食い散らかすじゃろう。じゃが少なかったら白い所までも綺麗に食う。あってもなくても感謝で食べることよ。
一粒の米でも3日で出来たものはない。皆種をまき、夏にクサ取りをして秋に取り入れをし、一年かかって出来ている。一粒も百粒も同じことよ。皆生命がある。神が作ったものじゃから。
どうしても食べられなくなった時は何でも生き物と同じこと、葬式をして棄ててやれ(お祈りをする)。皆沢山炊いて余らして捨てるようなことをするなよ。わしは物を炊いて腐らして捨てるようなことをしたことがない。一物たりとも天父の物。一物といえども皆神様が作ったものだ。「何、神が物を作るか」と言うが、違う。この扇風機でも皆人間を使うて神が作った。人を使うて神が作ったということを忘れている。始末とケチケチとは違うのだ。わしは一銭の無駄もしないが、昔は寄付でも部落で一番だった。
わしは昔は何かといえばハイヤーに乗ってあっちこっち出かけておった。田布施の街にも何度も出よったが、神に使われるようになってから自由がきかなくなった。朝水かぶり夜水かぶり、日に6度も水をかぶって、2里もある道を自転車に乗って行しに行きよった。今頃やれと言ってもできないが、あれも行の過程じゃった。九州の黒土へ説法に行った時、わしは駅からハイヤーに乗ろうとしたら、或同志が「大神様はハイヤーに乗られたら行にならない」と言って止めた。わしの肚はカンカンに怒って「おサヨがハイヤーに乗ったらいかんという理由がどこにあるか」と言った。
(注)これは大神様のご説法の一部である。
(注)ある早朝大神様は前日交通事故で重傷を負った徳山の同志仲子を手当して救うために、自宅療養中の同志宅に行かれた。肚の命じた時刻の列車に乗り駅で下車すると肚の神様は「ハイヤーにのれ」と言われ、大神様がタクシーを拾おうとされると、迎えにきていた仲子美敏さんさんが「ついそこですから」と言って歩かせた。大神様が骨折の手当をされて、急いで駅に行くと、ちょうど列車が出発する所だった。肚の神様はここまで見通されていたことがわかる。タクシーをやめたため説法時間までに戻れなくなった。そこで仲子美敏さんは大神様の依頼でトラックで大神様を自宅(道場)まで送り届けた。この時非常にスムーズに車が流れ、ガソリン消費も信じられない程少なかった。説法時間にまにあった。仲子美敏の弟は治った。
別の例では、ある同志が道場に迷い迷いして辿り着いた。タクシーに乗れば簡単だった。と指導された。
別の例では、同志が奉仕をしていて、帰りの列車時刻が迫った時、タクシーを呼べといわれた。
贅沢の基準を考える時参考になるご指導である。
(注)無駄遣いしないこと。物も金も時も活かして使い、死に金を使わないようにしていくと、金は回ってくる。心を物質に置かない。これらすべてが「あっても贅沢に流れるな、なくても不平不満を言うな。」に含まれているようだ。天声751号(紀元10年7月22日用に巡教先のロスアンゼルスから送られたご説法)P42-P45に「あっても贅沢に流れるな、なくても不平不満を言うな。」の意味が詳しく説かれている。「欲しがりません。勝つまでは」というような贅沢禁止令とは違う。長期的な家庭の財政・収支計画まで見てお金の使い方をコントロールすることまで含まれている。
(注)「一物たりとも天父の物。」この意味は(1)物・金・人など生かして使う。自分に必要なだけを消費する。お金を節約するため、食事の量を減らしたり、おかずの品数を減らすようなことはするなと注意された。体に必要なだけを買い使う。金額の多少は、本人の収入範囲であれば問題はない。食べれない量を買い無駄に捨てることが罪になると教えられた。食べ物への感謝が大事。旨くても不味くても感謝して食べられるようになれれば、精神が安定し体にも良い。(2)自分の物・金、自分が買った物、自分が作った物に執着せず、必要な時には、他人や公共のために使う。しかし注意すべきは、自他の区別は厳密につけ、他人の物の流用は盗みになるから厳につつしむ。
(注)「取ったと思ったら、取られている。儲けた思うたら損をしている。どこで算用が違うのか?」我々は自分だけが儲けよう、得をしようと汲々としている。相手のことを忘れている。自分だけがあくどく儲けると、相手は損をしてこちらを恨む。自分が相手からむしり取れば、相手は恨む。因果律とは作用反作用の法則に似ている。因果により今度は自分が恨みを与えた相手にしたことを、生霊により誰かにやり返される。つまり取られる。この自分だけが得をしよう。相手も自分だけが得をしようとせめぎあう世界は「餓鬼道の地獄界」である。この世界には本質的に勝者はない。勝てば勝つ程業の種は増す。唯一の勝つ道はこの世界を抜け出すこと。1つすぬけをしてみれば、そこは美しい神の国

密かなメッセージ

昨日の「偽りの生活」の最後に「天声は35号(紀元11年11月号)以降は本文の一番先頭(表紙の裏)にお祈りの詞は常に印刷されている。」と書いたが、これは不正確で、大神様ご昇天の前後4年間は異なっていた。その変化の軌跡中に大神様ご昇天の予告のサインがあったようにも思える。表紙の裏に印刷されている記事を調べると


35号(紀元11年11月)ー132号(紀元19年12月)  お祈りの詞
133号(紀元20年1月)ー141号(紀元20年9月)  お祈りの詞 神歌
142号(紀元20年10月)ー156号(紀元21年12月) 神歌
157号(紀元22年1月)ー168号(紀元22年12月) 毎月交互に「神歌」「奉答歌」
169号(紀元23年1月)ー180号(紀元23年12月) 「利己でくずれ去る暗黒の世に 宇宙絶対なる神が天降り 真人間の道を説きたもう この天の声地上にみちるとき 真心ある者は 心の目をさまし 心に神のみ光をいただいて 神行 神に行く道を進む」
181号(紀元24年1月)ー最新号(紀元78年3月)  お祈りの詞 

 世界ご巡教から大神様がご帰国されたのが紀元20年7月16日、夏の式典、国際会議などの行事が終わって最初の天声が142号。(140-141号は合併号)。この時から神歌になった。ご昇天の年(紀元22年)になると、1月から12月まで毎月交代で「神歌」「奉答歌」が掲載されている。神様はご昇天のサインをこのように天声を通じて出されていたのかも知れないと、今になってみるとわかる。169号は紀元23年1月号であるが、発行は紀元23年1月1日である。従って紀元22年12月中に作成されている。大神様ご昇天(紀元22年12月28日)を若神様が発表されたことが、急遽入れられている。ご昇天後の喪中に相当する一年間は、特別の文章である。

 大神様の海外ご巡教中、ご説法の前に「神歌」を歌い、ご説法の後に「奉答歌」を歌うことが世界ご巡教中インドに入られてから行われるようになった、と崎山氏が話された。これはそれ以降の各地でのご説法の構成になったようだ。インド・中東・ヨーロッパ・アフリカ・中南米では、大神様とお付きの人しか歌を知らなかった。何か深い意味があるのだろう。このインドの巡教だよりが掲載された始めたのが132号である。その次から神歌が入りだした。

天声は毎号神様が作っていると言われる。とりわけ大神様ご在世中の天声(1-169)を特別視している人もいる。紀元9年以降の4回の海外巡教だより、大道場建設の記録、大神様の日常の記録など、この神様と直弟子、周りの人々の貴重な詳細記録が後世に伝わるのだろうか、終戦直後の紙質が悪い時代の本である、と心配をしてしまった。大神様の直接の記録は宇宙絶対神の記録であり、人類の最重要記録であるはずだ。

釈迦の死後、弟子達は記憶を暗唱して、受け継ぎ、200年後、300年後に特殊な植物の皮や葉に文字を彫刻して保存、中国に伝わってからは、竹に墨で書いたり、和紙のような紙に書いたりして保存されてきた。これら派生記録は原始的に見えても、何百年という長期保存に耐えられた媒体に記録されたため、現代まで伝わってきた。

参考 御祈の詞

天照皇大神宮 八百万の神

天下太平 天下太平

国民揃うて天地の御気に召します上は

必ず住みよき神国を与え給え

六魂清浄 六魂清浄

我が身は六魂清浄なり

六魂清浄なるが故に

この祈のかなわざることなし

名妙法連結経

名妙法連結経

名妙法連結経

てんしょうこうたいじんぐう やおよろずのかみ

てんかたいへい てんかたいへい

こくみんそろうててんちのおきにめしますうえは

かならずすみよきみくにをあたえたまえ

ろっこんしょうじょう ろっこんしょうじょう

わがみはろっこんしょうじょうなり

ろっこんしょうじょうなるがゆえに

このいのりのかなわざることなし

なみょうほうれんげきょう

なみょうほうれんげきょう

なみょうほうれんげきょう